目次

  1. 第一章  ゆきの紹介
  2. 第二章  漁師との出会い
  3. 第三章  狐との出会い
  4. 第四章  商人との出会い
  5. 第五章  助けて!
  6. 第六章  都に到着
  7. 第七章  買物
  8. 第八章  若殿との出逢い
  9. 第九章  家老の調査
  10. 第十章  家老の調査報告
  11. 第十一章  忍者の襲撃
  12. 第十二章  ゆきはどこだ?
  13. 第十三章  一本の毛
  14. 第十四章  救出
  15. 第十五章  大名
  16. 第十六章  鬼
  17. 第十七章  家来の不満
  18. 第十八章  鬼の襲撃
  19. 第十九章  鬼の敗北
  20. 第二十章  殿様の評議
  21. 第二十一章  大名の返事
  22. 第二十二章  殿様の返事
  23. 第二十三章  若殿の出陣
  24. 第二十四章  大名の思い付き
  25. 第二十五章  忍者の思い付き
  26. 第二十六章  ゆきの出発
  27. 第二十七章  ゆきの演説
  28. 第二十八章  家老の再取立て
  29. 第二十九章  狐との会話
  30. 第三十章  狐子の紹介
  31. 第三十一章  市場へ
  32. 第三十二章  呉服屋の中
  33. 第三十三章  面白い本はどこだ?
  34. 第三十四章  市場の中
  35. 第三十五章  庄屋の家の中
  36. 第三十六章  城へ帰る
  37. 第三十七章  狐子との会話
  38. 第三十八章  評議
  39. 第三十九章  旅の準備
  40. 第四十章  最初の村
  41. 第四十一章  女将の到着
  42. 第四十二章  危難の噂
  43. 第四十三章  鬼との遭遇
  44. 第四十四章  破壊された村
  45. 第四十五章  広がる噂
  46. 第四十六章  城への帰還
  47. 第四十七章  女将との会話
  48. 第四十八章  家老の助言
  49. 第四十九章  面会の準備
  50. 第五十章  家来の妻
  51. 第五十一章  茶席の予定
  52. 第五十二章  三本の尻尾
  53. 第五十三章  狐子の話
  54. 第五十四章  話の続き
  55. 第五十五章  家老の話
  56. 第五十六章  寂しげな二人
  57. 第五十七章  茶室にて
  58. 第五十八章  琵琶法師の到着
  59. 第五十九章  冬の活動
  60. 第六十章  狐の到着
  61. 第六十一章  琵琶法師の話
  62. 第六十二章  旅の初め
  63. 第六十三章  狐の土地へ
  64. 第六十四章  子狐との出会い
  65. 第六十五章  姫との出会い
  66. 第六十六章  晩の会話
  67. 第六十七章  族長との会話
  68. 第六十八章  八狐との会話
  69. 第六十九章  姫の話
  70. 第七十章  狐との決戦
  71. 第七十一章  狐子の勝負
  72. 第七十二章  若殿との茶席
  73. 第七十三章  城へ戻る
  74. 第七十四章  狐一と下女
  75. 第七十五章  新しい着物
  76. 第七十六章  新しい仕事
  77. 第七十七章  広子と小猫
  78. 第七十八章  狐子からの試し
  79. 第七十九章  琵琶法師の告白
  80. 第八十章  呪いを解く
  81. 第八十一章  お守り
  82. 第八十二章  家老との面会
  83. 第八十三章  頭痛
  84. 第八十四章  殿様の到着
  85. 第八十五章  殿様との茶席
  86. 第八十六章  狐一と家来達
  87. 第八十七章  喧嘩
  88. 第八十八章  小姓をやめる
  89. 第八十九章  殿様との会話
  90. 第九十章  狐一と親衛長
  91. 第九十一章  殿様と狐
  92. 第九十二章  ゆきの陣痛
  93. 第九十三章  ゆきの子

第一章

ゆきの紹介

昔々、ある小さな村にゆきという娘がおばあさんと二人で暮らしていました。ゆきは、とても美しい子でしたが、二人は大変貧しい生活をしていました。村全体も貧しく、若者の姿もあまり見られませんでした。そして、ゆきと結婚したいという者も、誰一人として現れたことはありませんでした。

「ゆきや、お前の幸せを探すために、都に行った方がいいよ」と毎日おばあさんは言いました。

「おばあさまを独りここに残して都へ出かけることはできません」とその度、ゆきは答えました。

ある日、おばあさんは亡くなりました。おばあさんをお墓に葬ってから、ゆきは、なけなしの家財を集め、都へ向けて出発しました。

第二章

漁師との出会い

海岸

間もなくゆきは海に着きました。砂浜で漁師が網に開いた穴を繕っていました。

「こんにちは、漁師さん。私はゆきと申します」とゆきは言いました。

「こんにちは、ゆきさん」と漁師は答えました。

「よろしければ、私が網を繕うお手伝いをいたします」とゆきは言いました。

「分かりました。ゆきさんが網を繕ってくれるのなら、私は貝を採ります」と漁師は言いました。

それからゆきは砂浜に座りながら網を繕って、その間に漁師は海岸で貝を採りました。

間もなくゆきは網を繕い終わりました。「漁師さん!網を繕いました」と呼びました。

漁師は網をよく見ました。「きれいに修繕できていますよ。前より大分よくなったようです。助かりました。どうもありがとう」と言いました。

「いいえ、あまりうまくできなくてごめんなさい」とゆきは答えました。

「これからどこに行くところなのですか」と漁師は聞きました。

「幸せを探すために都に参るところです」とゆきは答えました。

「そうなんですか。では、頑張ってください」と漁師は言いました。

「頑張ります」とゆきは言いました。

「どうか、感謝の印に貝を半分受け取ってください」と漁師は言いました。

「そんなにいただくことはできません」とゆきは言いました。

「いいえ、つまらないものですよ。この繕っていただいた網で、たんと魚が捕まえられると思いますから」と漁師は言いました。

「本当ですか。では、貝をいただきます。どうもありがとうございます」とゆきは答えました。

それからゆきは貝を懐に入れ、都へ向かいました。

第三章

狐との出会い

しばらく行くと、ゆきは焚き火のそばに座って、兎を焼いている狐に出会いました。

「こんにちは、狐さま。私はゆきと申します」とゆきは言いました。

「こんにちは、ゆきちゃん」と狐は答えました。

「美味しそうな匂いがしますね。私はお腹が少し…すみません、狐さま。よろしければ、その兎を分けていただけませんか。私は貝を少し持っているのですが」とゆきは言いました。

「いいですよ。貝を分けてくれれば、私も兎を分けてあげます。ところで、どうしてそんなに美しいお嬢さんがこのような道を一人で旅しているのですか」と狐は聞きました。

「幸せを探すために都に行くところです」とゆきは答えました。

「気を付けて行くのですよ」と狐は言いました。

「はい。ありがとうございます」とゆきは答えました。

それからゆきは貝を開け始めました。驚いたことに、それぞれの貝の中に大きな真珠が入っていました。

「あの、狐さま、この貝の中に入っている真珠もお受け取りください」とゆきは言いました。

「そんなにもらうことはできません」と狐は答えました。

「一粒だけでも受け取ってください」とゆきは言いました。

「あなたのような気前の良い人間には、これまで一度も会ったことがありません。それでは、真珠を一粒と、数本の尻尾の毛とを交換しましょう。もし身の危険を感じるようなことがあったら、この尻尾の毛に触れながら『助けて』と三回唱えてください。そしたら、私たち一族はあなたを助けるためにそこに現れます。三度までなら助けてあげましょう」と狐は十本くらいの毛を尻尾から抜き取りながら言いました。

「そんな大切なものをいただくことはできません」とゆきは言いました。

「たいした物ではないですよ」と狐は言いました。

「そこまでおっしゃるのなら、ありがたく頂戴します」とゆきは真珠と尻尾の毛を交換しながら言いました。

兎と貝を焼きながら、ゆきは残りの真珠を懐に入れました。そして尻尾の毛を結って腕飾りを作り、自分の手首に巻きました。

二人が兎と貝を食べた後でゆきは「ご馳走さまでした。いただいたばかりで申し訳ないのですが、そろそろ失礼します」と言って町へ向かいました。

第四章

商人との出会い

ゆきは都を目指して旅を続けました。歩き通しだったので、日が沈む頃になるとお腹が減り始めました。ふと足を止めると、ゆきは美味しそうな匂いが辺りに漂っていることに気がつきました。

「どこからあんな美味しそうな匂いがしてくるのかしら」とゆきは思いました。周りを見回すと、道端に天幕が張ってあるのを見つけました。天幕に近付くと、その匂いはいっそう強くなりました。

天幕に着いた時、ゆきは天幕の後ろにいる呉服商を見つけました。その商人は夕食の仕度をしているところでした。

「ごめんください」とゆきは商人に話しかけました。

「どちらさまですか」と商人は尋ねました。

「はい、ゆきと申します。美味しそうな匂いに誘われてまいりました」とゆきは答えました。

「そうですか。かわいそうにお腹を空かしているんですね。そうだ。お茶を入れてくれませんか。一緒に食べましょう」と商人は言いました。

「ありがとうございます」とゆきは答えました。

それから、ゆきは湯を沸かして、お点前を披露しました。

商人は、「確かに良いお茶を使ってはいるのですが、それでも元の味を忘れてしまうほどの結構なお点前でした。そんな見事な茶道を、都以外で目にすることが出来るとは思いもしませんでした」と、驚きました。「どちらでこれを習いましたか」

「祖母が教えてくれました」とゆきは答えました。

「あなたのように美しく、そして見事な茶道で美味しいお茶を入れることの出来る娘さんには、絹の着物がよく似合うと思います。ちょうどここに、綺麗な絹製の着物がございます」と商人は言いました。

「そうですか。そういったものを今まで着たことがありませんでした。ぜひ、着てみたいのですが、お金がありません」と、うつむきながら答えた時、旅の途中で漁師から貝をもらったことを思い出しました。ゆきは懐の中の真珠を取り出しながら、「これと交換していただけませんか」と言いました。

「これほど大きな真珠を今まで見たことがありません」と商人は言いました。「その真珠一粒と引き換えに、私の一番綺麗な絹製の着物をさしあげます」

「これほど綺麗な着物を旅路で着ることはできません。きっと汚してしまうでしょうから、もしよろしければ、包んでくださいませんか」とゆきはお願いしました。

「はい、もちろんですとも。ありがとうございます」と商人は言って、ゆきから真珠をもらい、一番綺麗な着物を包んでゆきに渡しました。

「どうしてあなたのような美しいお嬢さんが、このような道を一人で旅しているのですか」と商人は聞きました。

「幸せを探すために都に行くところなのです」とゆきは答えました。

「そうですか。でも、この道を一人で旅するのは危険ですよ。今夜私のそばで寝た方がいいでしょう。そうすれば、ここで私が護衛をすることができますから。私は、明日、発ちますが、その都の方へは行きません」と商人が言いました。

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて、今夜ここで寝させていただきます」とゆきは答えて、持っていた布を地面に広げ始めました。

「地面で寝るのはかわいそうだ。私の天幕で寝てもかまいませんよ。そこの垂れ幕で仕切りますから、ご安心なさい」と商人が言いました。

「はい。では、そうさせていただきます」とゆきは答えました。布を開いたとき、一冊の本が落ちました。

「それは何ですか」と商人は聞きました。

「家系図です。私は家族の最後の子孫なので、他に誰も受け継ぐ人がいません」とゆきは答えました。

第五章

助けて!

次の朝、商人は手紙をゆきに渡して「都に着いた後で、温泉に行ってこの手紙をそこの女将に渡してください。その人は私の姉なのです」と言いました。

「分かりました。必ずその手紙をお姉さんにお届けします」とゆきは言いました。

それからゆきは都へ向かい、商人は別の方へ行きました。

間もなくゆきは浪人らに出会いました。

「こんにちは、お侍さま。私はゆきと申します」とゆきは浪人の頭に言いました。

「ふふふ。なんでそんなに美しい娘がこんな道を旅しているのかな」と頭は言いました。

「幸せを探すために都に行くところです」とゆきは言いました。

「今日はついてるぞ」と頭は言ってゆきを掴みました。

「そうだな」と他の浪人が言いました。

「いや!侍じゃない!山賊だわ!手を離して!助けて助けて助けて!」とゆきは叫びました。

あっという間に一匹、二匹、ついには百匹もの狐が浪人の間に現れて、浪人を咬んで躓かせました。

「畜生!妖怪が!逃げよう!」と浪人は言いました。

「このお嬢さんは俺が守っている。貴様のような奴は彼女に指一本触れてはならんぞ」と狐は浪人の頭に言いました。

それから浪人は皆狐に追われて逃げていきました。

「狐さま、助けてくださってどうもありがとうございます」とゆきは言いました。「真珠をもう一粒差し上げましょうか」

「そんなに貰うことはできませんよ」と狐は答え、「あともう二回まで私を呼んでも構いません。さあ、気を取り直して、旅を続けなさい」と励ましました。

「どうも、ありがとうございます。それでは失礼します」と言って、都へと歩き始めました。

第六章

都に到着

間もなくゆきは都の門に着きました。

「こんにちは。私はゆきと申します。どうぞよろしくお願いします」とゆきは門番に言いました。

「なんで君のような子がこの町に一人で来るんだ」と門番は言いました。

「幸せを探すためです」とゆきは答えました。

「では、この町に仕事があるんだな」と門番は言いました。

「そうです。あっ、それと、この手紙を温泉の女将にさしあげることになっているのです」とゆきは門番に手紙を見せながら言いました。

「それが本当なら、町に入っても構わない。しかし、もし三日以内に仕事が見つからなかったら、町を去らなければならんぞ」と門番は言いました。

「はい、分かりました。すみませんが、温泉はどこですか」とゆきは聞きました。

門番が道順を教えた後で、ゆきは間もなく温泉に来ました。

「ごめんください」とゆきは呼びました。

「いらっしゃいませ」と女将は返事をしながら、出てきました。

「こんにちは。私はゆきと申します。女将さんに話をさせていただいても宜しいですか」とゆきは聞きました。

「こんにちは、ゆきさん。私が女将です」と女将は言いました。「いかがなさいましたか」

「実は、旅路で、とある商人さまと出会いました。商人さまは、この手紙を温泉の女将であるお姉さまに渡してくださいと言いました。こちらをどうぞ」とゆきは手紙を女将に渡しながら言いました。

「どうぞ上がってください。その間に読んでおきますから」と女将は言いました。

「お邪魔します」とゆきは言いました。

「ああ、弟はあなたのお手前は素晴らしいと書いております。そのお手並みを拝見したいと思います。弟から貰った、その新しい絹の着物を着た後で、茶の湯を点ててください。もしあなたが弟の言う通りの方なら、ここで雇いますよ」と女将は言いました。

「はい。でも、私は少し汚れております。こちらの新しい絹の着物を汚したくないと思っているのですが」とゆきは言いました。

「あ、そうですね。どうぞ、あちらがお風呂になっています」と女将は言いました。

お風呂に入って絹の着物を着てから、ゆきはお点前を披露しました。それを見届けてから、女将は、「どうやら弟が申していたよりも、ゆきさんの茶の湯の腕は達者のようですね。こんなに素晴らしいお手前を、十五年以上もの間見たことがありません。失礼をいたしました。どうぞここにお留まりください」と深い会釈をしながら言いました。

「どういたしまして。誠に粗末なものでしたが」とゆきは言いました。「よろしければ、ここで勤めさせていただきたいと思います。でも、私はこの町に着いたばかりです。住まいもなく、お金もありません。こちらに貝から見つけた真珠が少々あるだけです」と、ゆきは懐から真珠を取り出して言いました。

「それでは、その真珠を使って首飾りを作ると良いでしょう。ここにある部屋に住んでも結構です。明日、私とゆきさん、二人で一緒に買物をしましょう。真珠の首飾りを作るのに宝石商に行ったり、絹の着物をもう少し買いに弟の店に行ったりしましょう」と女将は言いました。

「しかし、お金がありません」とゆきは言いました。

「心配しないでください。お金は私がお貸しします。この町一番の茶道家なんですから、すぐにも返すことが出来ますよ」と女将は言いました。

第七章

買物

次の朝ゆきは早く起きました。古い服を着てから、温泉の掃除を始めました。しかし女将はゆきを見て、「この町一番の茶道家がそんなことをする必要はありません。さあ、絹の着物に着替えて買い物に行きましょう。真珠を忘れないようにしてください」と言いました。

女将はゆきの素性が気になるのか、市場に行く間に、色々と質問をしました。

「どちらで茶道を学んだのですか」と女将は聞きました。

「実は、祖母から茶の湯を習いました」とゆきは答えました。

「お母さんや、お父さんは?」と女将は聞きました。

「母も父も私が生まれてから間もなく亡くなりました」とゆきは答えました。

「そうですか。あなたは今、おいくつですか」と女将は聞きました。

「今年で十七歳になります」とゆきは答えました。

「そうですか。お祖母さんのお名前を教えていただけませんか」と女将は聞きました。

ゆきがお祖母さんの名前を教えた頃、最初の店に到着しました。

女将が「その名字…」と尋ねかけた時、番頭が店先に現れました。「あっ、番頭さん、こちらはうちの新しい腕利きの茶道家、ゆきさんです」と紹介しました。

それから女将は次々と店を巡って、ゆきを商人に紹介して回りました。

程なくすると、新しい茶道家について、町の住民が皆口にするようになりました。温泉に行ってゆきの茶の湯を見た人々は皆驚き、ゆきの茶の湯の腕を褒めました。その後の数日間、温泉はかつてないほど賑やかでした。

第八章

若殿との出逢い

城の中でも新しい茶道家の腕について皆が話題にしていました。殿さまの長男が家老に「その新しい茶道家の名高いお点前を、今晩にでも見てみたい。温泉に行って、手筈を整えてくれ」と言いました。

「畏まりました」と家老は言って、温泉へ出かけました。

家老は温泉に到着すると、「女将、茶の湯の予約をしたいのだが」と言いました。

「はい。来週はいかがですか」と女将は言いました。

「今晩はどうだ。若殿さまが城で新しい茶道家のお手前をご覧になりたいとおっしゃっておる」と少し急き立てるように、家老は女将に言いました。

「若君さまですか。はい、はい、今晩の予約を入れておきます。今晩必ず城に行かせます」と女将は快く答えました。

家老が去った後で、女将はゆきのところに行きました。「ゆきちゃん!今晩、若さまが城であなたのお手前を見てみたいそうです。新しい真珠の首飾りと一番きれいな絹の着物を着ていきなさい」と言いました。

その日、温泉は早めに店じまいしました。女将はゆきが城に行くために身支度をするのを手伝いました。その夕刻、ゆきは城に行きました。若殿の部屋に案内された後で、「はじめまして。温泉の茶道家、ゆきと申します。どうぞよろしくお願いします」とゆきは言いました。

「はじめまして、ゆき殿。よろしく」と若殿は言いました。

それからゆきはお点前を披露しました。「あなたは本当に達者な茶道家ですね。毎晩ここに来て、お点前を披露してください」と若殿は言いました。

ゆきは「誠にお粗末ではございますが、お望みでしたら、必ず毎晩ここに来て、お茶を点てさせていただきます」と言って、温泉に帰りました。

ゆきが去った後で、「あんな美しくて達者な茶道家を見たことは今までなかった。姫のような風貌だ。彼女のことをもっと知らなければならん。彼女のことを手を尽くして調べておくように」と若殿は家老に言いました。

家老は「お望みとあれば、何でもいたします」と答えました。

第九章

家老の調査

次の日、家老は温泉に行きました。「女将さん、わしは若殿さまより、新しい茶道家のことを調べ尽くすようにと仰せを賜ってきた。彼女について知っていることを全部教えてください」と言いました。

女将は「そうですね。ゆきは数日前この温泉に来て、弟の手紙を渡しました。二人は道で出会って、ゆきは弟に茶の湯をしました。ゆきは小さな村でお祖母さんに育てられたと言いました。親はゆきが生まれてから間もなく二人とも亡くなったと言いました。家系図の本を持ってきました」と言って、おばあさんの名前を教えて、手紙を見せました。

「そうか。十五年ぐらい前、その名は名高かったようじゃ。その家系図を見てみたい」と家老は言いました。

女将は家老をゆきのところまで導いて「ゆきちゃん!若殿の家老さまがあなたの家系図を見てみたいと仰っています」と言いました。

それからゆきは家老に家系図を見せました。家老は家系図をつぶさに検めました。「この紋はよく覚えておる。本当にあなたの家紋かの」と言いました。

ゆきは「それは分かりません。この本にそう記されているだけですから」と答えて、小さな村の生活と旅路のことを語りました。

それから家老は温泉から去り、使者を小さな村に派遣しました。

毎晩ゆきは城に行って、若殿に茶の湯を振舞いました。ある夕べ、若殿は狐の尻尾の毛で作られた腕飾りに気づきました。「ゆき殿、どうしてそんな腕飾りを手首に巻いているのか」と聞きました。

「この腕飾りですか。実は、幸運のお守りなのです。これは道で出会った狐に頂いた尻尾の毛で作られています」とゆきは答えました。それからゆきは若殿に旅路のことを語りました。

第十章

家老の調査報告

数日後、家老は若殿に報告しました。「若殿さま、例の茶道家を調べ尽くしました。十五年ぐらい前、ある老婆が赤子だった孫娘とある小さな村に落ち着きました。その後、そこで静かに二人で貧しい生活を送りました。数週間前、老婆は死んで、孫娘は村を去りました。

「その日、ある漁師がその村からこの町まで来る途中で、その娘と出会いました。娘は漁師の網を繕って、漁師は娘と貝を分けました。娘は、そのときは毛の腕飾りを手首に巻いていませんでした。

「その夕べ、ある服の商人が(温泉の女将の弟なのです)その道の途中で娘と出会いました。娘は毛の腕飾りを手首に既に巻いていて、貝の中で見つけたという真珠と家系図を持っていました。商人は娘に女将宛の手紙を渡しました。

「次の日、女将への手紙を持ち、毛の腕飾りを手首に巻いていた娘は、この町の門に来ました。温泉への道順を聞きました。その後間もなく、毛の腕飾りを手首に巻いていた娘は温泉に来て、商人からの手紙を女将に渡しました。女将は娘を茶道家として雇いました。

「商人達は皆、娘がゆきと名乗ったことを確認しました。狐と山賊の実在は確認できません。しかし、漁師が娘と会った砂浜と商人の野営地との途中に、焚き火の灰と貝が見つけられました。

「ご存じかもしれませんけど、十五年ぐらい前、ある大名が倒されて城が火事で焼け落ちてしまいました。その大名には、有名な茶道家の母親と赤子の娘がいました。その時、母親と娘は火事で死んだと皆思いましたけど、遺体が全く見つけられませんでした。大名の母親の名前と若い茶道家の祖母の名前は同じです。また、大名の家紋は若い茶道家の家系図にあります」と家老は言いました。

「面白い。父上に教えた方がいい」と若殿は言いました。それから二人は殿さまのところに行って、家老は報告を繰り返しました。家老が終った後で、殿さまは「そなたは、その娘に興味があるのか」と若殿に聞きました。

若殿は「もし父上が了承をしていただければ、茶道家と結婚するつもりでございます」と答えました。

「その茶道家を一目見てみたいと思う」と言いました。

その夕べ、ゆきは殿さまの部屋に招かれました。「はじめまして。温泉の茶道家、ゆきと申します。どうぞよろしくお願いします」と言いました。

殿さまは「そなたの風貌、、、。うむ、懐かしい」と呟きました。

ゆきがお手前をした後で、殿さまは「そなたのおばあさまにうりふたつだ。彼女はよく教えたものだ」と言いました。

ゆきは「左様でございますか。殿さま、よくまあ私の祖母をご存知でしたね?」と聞きました。

殿さまは「そなたのご両親も亡くなる以前存じ上げておった。そなたの父上は偉大な人物で、わしと友達だった」と言いました。

「祖母は親については何も話しませんでした。教えてくださいませんか」とゆきは尋ねました。

「うむ。しかし、まず息子が申したいことがある」と殿さまは言いました。

若殿は「ゆき姫、もし私と結婚してくだされば、必ず幸せにします」と言いました。

「いえ、私は姫ではございません。私のような女は若殿と結婚できません。分かりません」とゆきは言いました。

「君の父上は大名だった」と殿さまは言いました。

「なんと言ったらいいか…。けれどももし若殿さまがそうお望みならば、思し召すままに」とゆきは言いました。

それから三人で長らく喋りました。

第十一章

忍者の襲撃

一方、ある妬み深い老婆の茶屋が忍者らに会いました。「あのよそから来た茶道家は、お客を横取りするんです!消して欲しいんです!」と言いました。

忍者の長は「そうですか。どんな手立てがいいでしょう?」と聞きました。

茶屋は「どんな手立てでも構いません」と答えて、去りました。

長は側近に「あの茶道家について何か知っているか?」と聞きました。

側近は「数週間前、この町に来ました。温泉で働いています。そして毎晩、城に行きます。若殿は彼女について興味があるそうです。隣にあった国の前の大名の娘かも知れないそうです」と答えました。

「面白い。隣の国の大名も、彼女について興味があるかな。じゃ、娘を今からここに連れてきて、大名に使者を派遣しろ」と長は言いました。

「はっ、長、仰せの通りにいたします」と側近は言って、出かけました。

その夜、ゆきが温泉へ帰る間、忍者はゆきを素早く取り囲んで、猿轡をかませて、手足を縛りました。揉みあっている間に、毛の腕飾りは切れて、地面に落ちてしまいました。

側近はゆきを長のもとへ手足を縛ったまま連れて行きました。「この娘が茶道家です」と言いました。

長は「そうか。若すぎるな。本当に上手かな。この娘の茶の湯を見てみたい。束縛を解いて」と言いました。

猿轡が外させてから、「助けて助けて助けて」とゆきは叫びましたが、狐の毛がないので、何事も起こりませんでした。

「この付近では、いくら叫んでも、誰も助けにはこない」と長は言いました。「一服立ててくれ」

しかたなくゆきはお手前を始めました。終った後で「本当に上手だぞ。大名の興味がなければ、俺はお前を芸者にするつもりだ」と長は言いました。

「めっそうもございません」とゆきは言いました。

「この娘を牢に連れて行って、そこに閉じ込めておけ」と長は言いました。

牢に閉じ込められてから、ゆきは泣きながら眠ってしまいました。

第十二章

ゆきはどこだ?

次の朝、女将が起きると、ゆきが見当たりません。「あの子は一体どこだろう?」と思いました。「まだお城にいるかな?」

それから女将は城に急いで行きました。城に着いてから「温泉の女将です。昨晩、うちの茶道家は若殿に振舞うためにこちらに参りましたけど、温泉に帰ってきませんでした。まだ城におりますか」と守衛に聞きました。

「ここで待つように」と守衛は言いました。

間もなく家老が門に来ました。「昨夜、茶道家は温泉へ帰ったはずじゃ。そちらに着いていませんか」と聞きました。

「まだ戻っておりません」と女将は答えました。

「知らせに感謝致す。調べさせて茶道家を見つけよう。心配には及ばん」と家老は言いました。

それから女将は温泉へ帰り、家老は若殿に報告しました。守衛らはゆきの捜索を始めるように命じられました。

間もなく家老は若殿にまた報告しました。「若殿さま、道の途中でこの切れた毛の腕飾りと絹の切れ端を見つけました。争った形跡がありました」

「そうか。その場所に案内しなさい。守衛と猟犬を連れていってくれ」と若殿は言いました。

そして、若殿たちは城を後にしました。

第十三章

一本の毛

一方、ゆきは目覚めました。「腕飾りがないから、狐は来なかったんだろう」と思いました。「腕飾りが切れた時に、狐の毛が少し着物にくっ付いたかも知れない。もし狐の毛が一本だけでも見つけられるなら、狐を呼ぶことが出来るかもしれない」

それからゆきは死に物狂いで着物で狐の毛を探しました。やっとのことで短い毛を一本見つけました。毛を両手に持ちながら「助けて助けて助けて」と言いました。

あっと言う間に一匹、二匹、ついには百匹の狐が牢に現れました。「狐さま、この牢から助け出してくださいませんか」とゆきは頼みました。

「どうしてもっと早く呼ばなかったのですか」と狐は聞きました。

「実は呼びたかったんですが、不意に襲われましたし、猿轡をかまされてしまいました。争いの最中に毛で作った腕飾りが切れて落ちてしまったんです。この短い毛一本を見つけるまで、呼べなかったんです」とゆきは答えました。

それから狐たちは壁の下に穴を掘って、忍者を追いかけ、牢の鍵を見つけました。

第十四章

救出

一方、家老は若殿を腕飾りを見つけた場所に案内しました。若殿は「犬に匂いを嗅がせなさい」と言いました。

犬は絹の布地を嗅がせられて、吠え始め、道に沿って走り始めました。

間もなく「畜生!妖怪が!」と聞こえてきました。

「早く!奴らを逃がしてはならない!」と若殿は言いました。

守衛らは若殿と共に忍者を襲いました。一方、忍者の砦の中、ゆきはどよめきの音を聞いて、窓の方に行きました。「若殿さまです!狐さま、若殿さまを助けてくださいませんか」と頼みました。

狐は「そのようなことはできません。若殿は男なので、自分の戦いは自分で戦わなければなりません」と答えました。「ここで待っていてください。戦いが終わるまで、君を守ります」

「はい。戦いが終わるまで、ここで待ちます」とゆきは答えました。

それから若殿は守衛らと共に忍者の大部分を捕らえましたが、残りの忍者は逃げました。

「ゆき殿はどこだ」と若殿は忍者に言いました。

「ここです」とゆきは入口で言いました。

「ゆき殿!大丈夫ですか」と若殿は言いました。「これを落としたでしょう?」腕飾りを見せました。

「あっ!それ、無くしてたんです。若殿さま、腕飾りを見つけて、返してくださって、さらには私をも助けてくださるなんて、本当にありがとうございます」とゆきは言いました。

「礼には及ばん」と若殿は答えました。

「狐さま、私を脱獄させて、守ってくださってどうもありがとうございます」とゆきは答えました。

狐は「どういたしまして。他にも君を守ってくれる人がいるようですね。もう一度だけ僕を呼んでも構いません。頑張ってください」と言いました。

「がんばります」とゆきは答えました。

「ゆきさんと結婚するつもりです。もし、狐どのが結婚式に参加していただけたら、大変光栄です」と若殿は言いました。

「そうですか。普段なら私は人間の営みとは関係を持たないのですが、このお嬢さんは特別です。きっと結婚式に参加できるでしょう」と狐は答えました。

第十五章

大名

結婚までの計画を立て始めました。日取りを決めて、殿様に招待状を送りました。

隣の国の大名にも招待状を出しました。しかし、大名は招待状が気に入りません。

「あの女は前の大名の娘なのか?」と大名は忍者の長に言いました。

「大きな町の若殿はそう言っています」と長は答えました。

「娘は前は囚人だったのか?」と大名は聞きました。

「はい」と長は答えました。

「娘が生きていては、我々の悪事がばれてしまう。その若殿の家族は前々から私が大名になることに反対した。若殿が娘の正当な継承者としての力を持てば、私は今の地位を失ってしまうではないか!なんで殺さないのか?!」と大名は叫びました。

「大名さまは茶道家と結婚したいのかも知りませんし、命令をいただいておりませんし…」

「黙れ!考えておるところだ!あっ!私が娘と結婚すれば、誰も継承を阻止できない!」

「素晴らしい考えでございます、大名さま」

「どうしたら結婚できるかな。もうすぐ若殿と結婚するであろう」

「もし結婚式の前に娘を連れ去れば、大名さまは娘と結婚できるかも知れません」

「黙れ!今考えておるところだ。そんなに一度に言われたら、考えることができん。あっ!娘を連れ去れば、結婚できるのか!」

「よい考えでございます。しかし、娘は狐に守られているようでございます」

「そのようだな。どうすれば妖怪を避けて、あの娘を手に入れることができるのか?」

「噂では鬼の助けを得て、前の大名を倒したということです」

「あーもう、話が長くて、ちっとも考えられないのだ!あっ、もう一度鬼の助けを得ればいいのか」

第十六章

大名

次の日、大名は忍者の長と家来と一緒に山へ向かって馬を走らせていました。間もなく岩屋の入口に着きました。

大名は「ここで待て。どんなことが起こっても、着いてきてはいけない」と言いました。

「大名さま、その場所は危ないようです。誰かお供を連れて行った方がいいのでは…」と、長が勧めました。

「この岩屋の住人の力は、私を殺したければ、兵が全員でかかってもかなわないほどのものだ。このより先は、わし一人で行かなければならん」と大名は答えました。

それから大名はろうそくを点して、岩屋の入口に入りました。間もなく大きな洞窟に来ました。いきなり、太い声が聞こえました。「俺さまの住まいに入って来たのは誰だ?」

大名は深く会釈しました。「鬼さま、昔、力をお貸しいただいた者でございます。もう一度手伝ってくださいませんか」と言いました。

鬼は「毎週牛を一匹近くの牧場から取っている。別な味が欲しい時に、娘を一匹百姓の家から取っている。今度手伝ったら、何をくれるのだ?」と言いました。

「前の大名の娘はまだ生きていて、隣の国の大きな町に住んでいるようです。娘と結婚するために、彼女を誘拐してくださいませんか。娘さえ手に入るならば、町を全部滅ぼしても構いません」と大名は答えました。

「なぜ人間の家来を使わないのか」と鬼は聞きました。

「実は、娘は狐で守られているようです。領地にいた忍者が誘拐しようとしましたが、狐が助けてしまいました」と答えました。

「狐?煩わしい奴等だ。昔から狐が大嫌いだ。よしじゃあ、やってみよう」

第十七章

家来の不満

一方、岩室の入り口の前で、忍者の長は家来と待っていました。

家来たちは周りを戦々恐々と見渡していました。その内の一人は「ここは嫌な場所だ。この近くに鬼がいつも攻めてくるそうだね。山に行いってその原因を調べればいいのに、どうして山に行くことを禁止してるのかな」と言いました。

その話を聞くとすぐに、家来は全員静かになっておろおろと忍者の方を伺いました。間もなく、家来の長は大きな声で「そいつはいつも冗談ばかり言っているんだよ」と言って最初の家来を脇へ引き込めて、耳打ちしました。「馬鹿者!あの忍者は大名の目と耳のような者だ。死にたいのか?」

最初の家来の顔が青くなりました。「申し訳ございません、頭。忍者のことを考えていませんでした。実は、家内の家族がこの近くに住んでいて、最近大変な生活を送っています。前の大名の時代…」

「黙れ!それは禁句だぞ」

その瞬間、大名が岩屋から出てきました。「ここでの用事は終わった。城へ戻ろう」と言いました。

馬で城へ戻る間に、忍者の長は大名の隣に座りました。「大名さま、恐れ多くも、家来と一緒にあそこに行くことは、あまり良い考えではなかったかと存じます。そんなことをしたら、家来たちは怖がって、大名様のために戦うことには度胸をなくしてしまうんじゃないでしょうか」と言いました。

「仕方ない。護衛のない旅は安全ではないからな」と大名は答えました。

第十八章

鬼の襲撃

間もなく、若殿とゆきの結婚式の日になりました。いろいろな殿様たちが、結婚式を出席するためにその大きな町に来ました。そして狐も、人間の姿に化けた後で来ました。しかし、隣の国の大名は来ませんでした。

結婚披露宴は城の庭で行われました。綺麗な花が、あちらにも、こちらにも咲いていました。本当に素晴らしい日でした。

突然、町から叫び声が聞こえました。ただちに、家老は大きな町の殿様に近寄りました。「殿様、巨漢の鬼が町の家を壊して城の方へ来るようでございます」と知らせました。

「息子と一緒に兵を駆り集めろ。わしの甲冑と武器を整えさせろ」と殿様は家老に言いました。それから客人たちの方に向いて大きな声で言いました。「皆様、残念ですが、大変なことが起こっています。早く城の中に入ってください」

間もなく、ほとんどの客人たちが城に入った後で、若殿は兵と一緒に外曲輪の上に向かいました。そうこうしているうちに、鬼は外曲輪までやってきました。鬼が見渡したとき、一人の女性が見えました。そのきれいな女性は、恐怖で凍り付くようにして立っていました。「ほほう」と鬼は笑いました。「お前は大名が話していた娘だろう。俺様と来い」と言って手を伸ばして女性を掴み取りました。

それを見た時、若殿は「しまった、ゆきが!やめろ!ゆきを掴んだ手を放せ!」と叫びました。

第十九章

鬼の敗北

鬼は、娘を攫うと、山の方へ向かって歩き出しました。若殿は厩に行き、馬に乗ると急いで鬼を追いかけていきました。若殿の従者達も慌てて若殿の後を追いました。

一方、町を抜けた鬼は、「なんでこんなに狐臭いんだ」と、辺りの臭いをくんくんと嗅ぎながら言いました。

すると、娘を掴んだ拳の中から、「このお嬢さんは俺が守っている。貴様のような奴がこの方を傷つけることは許さんぞ」と、その娘のものとは思えない、太い声が聞こえてきました。

それを聞いた鬼は何事かと思い、声のする方へ向いたその時、大きな穴に足が嵌まり、ひっくり返ってしまいました。

鬼が倒れたその瞬間、坂道の曲がり角から馬に乗った若殿が現れました。鬼は腕を伸ばして地面から二、三尺体を持ち上げ、立ち上がろうとしましたが、その鬼の広い背中に、若殿が乗っていた馬から跳び移り、刀で太い鬼の首をスパッと切り落としました。鬼の首は、ごとりと鈍い音を立てて落ち、辺り一面が血の海になりました。首が落ると同時に、鬼の体は再び倒れ、しばらくの間その巨大な体はもう死んでいることに気がついていないかのように震えていました。鬼の体から飛び降りた若殿は、顔までも血しぶきがかかりましたが、自分の顔が血で染まっていることよりも、ゆきの安否の方が気がかりでなりませんでした。「ゆき!どこだ!大丈夫か!」と辺りを見回し、叫びました。

「心配はございません」と、聞き覚えがある声がし、若殿が声のする方へ顔を向けると、そこには狐が立っていました。「城へお帰りください。本物のお嬢さんは無事で城にいます」と狐は言いました。

若殿は「狐どの!これはこれは驚きました。しかし、私の目には、ゆき殿が鬼に攫われたように映ったのですが」と若殿が目を丸くしながら、狐に訊ねると、狐は少し笑いながら、「こんな風でしたか」と言って、ゆきの姿に化けました。それから、もう一度狐の姿に戻りました。

「これはなんと奇ッ怪な!」若殿は驚いて声をあげました。若殿はゆきの無事を知ると、ほぅ…っと胸を撫で下ろしました。今までの緊張が解れたのか、一瞬、よろよろと倒れそうになりましたが、狐の方に向き直ると、深く頭を下げ、「いつもありがとうございます。今後はいつでも私の城へいらしてください。お礼を差し上げたいので」と、言葉を残し、馬で城へ帰りました。狐は若殿が去っていく姿を眺めながら、「それなら今度またゆき殿を見に行ってみるかな」と呟きました。

第二十章

殿様の評議

間もなく若殿たちは城に帰ってきました。若殿は城の中に入るとすぐ、「ゆき!ゆきはどこだ!無事であったか?」と大きな声でゆきの名前を呼びました。

若殿の声は、玄関から遠く離れた場所にいたゆきにも充分に届くほど、大きなものでした。ゆきが、逸る気持ちを抑えつつ、駆け足で玄関に向かうと、そこには、なんと若殿が血まみれで立っていました。

驚いたゆきは、「若殿さまこそご無事でございましたか。血まみれではございませんか」と訊ねると、若殿は、「心配は要らぬ。これは鬼の返り血を浴びただけだ」と答えました。血まみれではありましたが、その笑顔は、いつもの若殿の優しい笑顔でした。

ゆきが、血で汚れた若殿の顔を拭こうとしたその時、家老が若殿のところに駆け寄って来ました。家老は若殿の顔を見たとたん、安堵の笑みを浮かべながら、「若殿様ご無事で何よりでございます。ご帰還なされたばかりでお疲れのところとは存じますが、我が殿がお呼びでございます。只今、近隣諸国の城主様達と一緒に評議をなさっています。若殿様とゆき様も参加されるようおっしゃっておられます」と、早口で言いました

若殿は「うむ。分った。ゆき、来い」と言い、評議の場へゆきと一緒に向かいました。

そこではちょうど髭の大名が「此度の襲撃は言語道断です!あの大名を攻めるべきです」といきり立っているところでした。

すると、丸禿げの大名が「まあまあ。どうして陰で糸を引いているのがあの大名だと言えるのですか」と尋ねました。

髭の大名は「鬼とつながりのある大名なんて、他に考えられますか」と、興奮しながら言い返しました。

城主は「まあまあ、お二人とも少し落ち着いて…今、鬼がどのようにしてこの国までやって来たのか、家来に調べさせています。他の国から来たのかもしれませんよ」と、二人をなだめるように言いました。そして、若殿の方へ向き、「息子よ、鬼はどこへ行ったのだ」と聞きました。

「地獄へと送ってやりました。この太刀で首を切り落としてやりましたから」といつもは優しい微笑が印象的な若殿が満面ににやりと誇らしげな笑みを浮かべて言いました。

その様子を見ると、胸を張っていてもしばらく言葉に詰まっている若殿の父上を横目に、今まで黙って聞いていた、太った大名が「もしその大名が今回の襲撃の黒幕だと証明され、われらが攻め勝ったとしましょう。そうなると問題はその後のことです。いったい誰が替わって…そ、その、その国を治めることになるのですか」と聞きました。

城主は「ゆき、こちらに参れ」と、少し強い口調で、ゆきを呼び出しました。ゆきが殿様の傍に寄ると、「あの国の正統な継承者はこの者です。この者を措いて他にはおりますまい。親友であった先の大名の唯一の忘れ形見なのです」と言いました。

ゆきは、城主の考えをそこで初めて知りました。「私がでございますか?でも、国を治めるなんて、とんでもないことでございます」と、驚き目を丸くして、どこかに隠れたい様子で言いました。

城主は「心配は要らぬ。息子は生まれた時から、わしの下で国を治めることを学んできておる。そなたに助言することができよう」と言いました。

太った大名は「大名の討伐と領地の件はまったく別問題です。討伐の結果によりこの国に豊かな領地が加わることは我々としては承知しかねますな」と言いました。

それに答えるように若殿は「私には弟がおります。もし、ゆきがその国を治めることになれば、私はこの国の跡目を継がぬつもりでございます」と言いました。

丸禿げの大名は「たしかに、先代の大名が亡くなるまであの国はとても豊かな国でしたが、今の代になってからは悪政によって、急に貧しくなっているという噂です」といいました。

髭の大名は不思議そうに「そもそもどうしてこのお嬢さんが先の大殿の娘御だとご存知なのですか」と聞きました。

そこで、家老が改めて、ゆきの素性についての調査の結果を報告しました。

その後隣国の大名たちは膝を突き合わせて、その大名打倒のための様々な計画を立てました。

第二十一章

大名の返事

次の日、鬼の足取りを調べに行った兵が戻ってきました。兵の話によると、鬼は隣の国から来たようでした。早速、兵達は鬼の首を荷車で国境まで運びました。鬼が死んだという話は、あっという間に国中に広まりました。百姓たちは、とても喜びましたが、ゆきを手に入れる計画がうまくいかなかったので、大名は喜ぶことが出来ませんでした。

そのうち、ゆき達の婚礼に参加していた近隣諸国の領主達のほとんどは、その大名を倒すために、兵を送り出してきました。続々と戦の準備のために兵が到着しました。そして、ゆきの義父となった殿様が、総大将として隣の国の大名に対し、ゆきに領主の地位を譲るように使者を遣わしました。

その行為に大名は大変気分を損ね、「このようなわけの分からん要求を突きつけてくるとは、いったいどういうことだ?どうしてわしが前の大名の娘だと名乗る女子にこの国を譲らねばならんのだ。そもそもその女は何者だというのだ?所詮百姓の娘だろう」と、目をつり上げて、使者を怒鳴り散らしました。

使者は、「ゆき様がこちらの国を治めるか否かに関わらず、鬼の襲撃の件で、あなた様には領主の座を退いていただかねばならぬと我が殿達は申しております」と、落ち着き払って答えました。

「わ…わしはそんな鬼のことなど知らぬ!!」と、怒りのあまり耳まで真っ赤にしながら大名は答えました。

使者は、「襲撃の時、その鬼が『そいつは大名が話していた娘だろう』と言ったのを皆が聞いておりました。そして、鬼の足取りを調べると、この国から来たことが判明しました。もはや言い逃れはできますまい。ここは領地をお譲りになられるのが得策かと思われます」と言いました。

大名は「そなたの主がわしに鬼の首を送ったように、わしも同じようにしてやろう。そやつの首をはねて送り返してやれ」と家来に怒鳴りつけました。

使者は、その言葉を聞くやいなや身構えましたが、刀を抜きかけたその瞬間、すでに首が宙に飛んでいました。首が大名のところまで転がる前に、血だまりに頽れる使者の体の背後で、忍者の長がもう血に染まった刀を拭いているのを見て、大名は満足げに目を細めました。

そして、使者の首は主の下へ送り返されることとなったのです。

第二十二章

殿様の返事

間もなく大名の使いが使者の首をその町に引き渡しに来ました。そして、殿様の御前で、使いは思い詰めたように切り出しました。

「畏れながら我が殿は、あなた様が遣わされた使者の首を刎ねさせ、私に送りつけるようにと命じました。お確かめください。このようなことを平気でしたり、鬼に百姓を襲わせるような理不尽な主には、もはやお仕えすることはできません。ずうずうしいことは重々承知の上ですが、あなた様にお仕えさせて頂くわけには参りませんでしょうか。願いを聞き届けていただけない場合は、浪人になる覚悟もできております」その使者の眼差しは、真剣そのものでした。

殿様は、その瞳を見つめながら、「ふむ。家老、この首を家族の元に届け、丁重に葬ってやれ」と言いつけました。そして家老が首の入った箱を持ち去ると、「そなたの仲間も同じように考えておるのか」と、使者に訊きました。

大名の使者は、頭を下げたまましばらく考えたのち、おそるおそる語り始めました。「我が殿はとても恐ろしいお方なので、皆殿を恐れ、本音を語る者などおりません。ですから、あくまで私の推測ですが、殿の下を去りたがっている者は少なくはないでしょう。しかし、一族に対する報復を恐れ、国を出られない者もおりますし、中には我が殿のような厳しいお方こそ真の主だと考える者達もおるようでございます」と、殿様の目を真っ直ぐに見つめながら答えました。

「そうか。わしの家来になりたいのなら、後で家老に話してみるが良かろう。しかし、わしの軍勢に入る前に、この仕打ちに対するわしの返事を持って国へ戻れ。わしの返事はこうだ。『貴殿の胸の内、よく分かった。そちらがそう出るならこちらにも考えがある。お覚悟召されよ』とな。そしてできるだけ多くの叛意を持つ者を連れてここへ戻って参れ」そして殿様は声を張り上げて叫びました。「これは戦だ!」

第二十三章

若殿の出陣

間もなくして戦の準備が整いました。殿様と若殿は兵と一緒に出かけるところでした。「ゆき、行ってくる。私が留守の間、家老から国の治め方を学びなさい」と若殿は言いました。

「お気をつけて、どうぞご無事で」とゆきは心配そうに答えました。若殿は笑顔で「うむ」と答え、颯爽と馬に乗り、戦場へ向かっていきました。ゆきはその出陣を見えなくなるまでじっと見送りました。

若殿が帰ってくるのを待つ間、ゆきは毎日、朝から晩まで一生懸命国の治め方を勉強しました。時々殿様や若殿からの手紙を受け取ることもありました。殿様の手紙の内容はほとんどは、戦の報告や家老への命令でしたが、若殿からの手紙の内容の大半は、ゆきへの想いを綴ったもので、それはまるで恋文のようでした。ゆきはその手紙を、自分の宝物を入れている化粧箱の中に保管し、寝る前に必ずそれを読み返しながら、若殿の無事を祈っていました。そんな行為が日課になりつつあった、ある日のことです。

その日の指導が終わった時、自分の部屋でお点前を練習しに戻ろうとするゆきに、家老が「ゆき様には、国を治める資質がおありです。読み書きは、お祖母様から学ばれたのでしょうか」と尋ねました。

ゆきは手を止め、「そうです。書物を読むのが大好きです。でも、私の村には読み物があまりなかったので、おばあさまの『源氏物語』以外、あまり読んだことがありません」と答えました。

すると、家老は、「さようでございますか。では源氏物語は、全てお読みになりましたか」と家老は聞くと、ゆきは少し残念そうに「おばあさまの本は数章が抜けておりましたので、全てを読んではおりません」と答えました。

「さようでございますか。ここには『源氏物語』の全巻と、他にもいろいろな本がございます。もしお暇があれば、どうぞお読みください」と家老は優しく言いました。

第二十四章

大名の思い付き

殿様の同盟軍が隣の国に攻め入ると、その国の兵は大名の城へ退却し、間もなく殿様はその城を包囲し、攻撃し始めました。

大名は激高し、忍者に言いました。「馬鹿な鬼め、なぜあの時の襲撃で死んでしまったのだ?」

すると忍者は、「私は鬼のことは存じませんでした」と冷静に答えました。

大名は、「あの連中は、襲撃がわしのせいだと責めておる!わしが命じたわけでもないのに!」と言いながら座布団を取り、裂き始めました。

忍者は、「左様でございますか」と瞬きもせず答えました。

大名は裂かれた座布団を床に投げ、舌打ちをし「どうすればいい?向こうは多勢である上に、わしの家来どもはあの有様だし、打つ手がない」と哀れっぽい声で言いました。

忍者は表情を変えずに、「左様でございますか」と繰り返しました。

その声に反感が籠もっているのに気付かなかったのか、大名は、「そうだ!忍者のお前なら、敵陣に入って、あの殿と息子を殺すことができるだろう」と言い、輝きを取り戻した目を忍者の方へやっとはじめて向けました

「それはそうでございますが、そう簡単にはいきますまい。狐の襲撃の際、私は家来を全て失いましたし、相手方の警護は厳重でございます」と忍者は冷たく答えました。

忍者は大名とは反対に、冷静沈着そのものでした。大名は、その冷静さの理由が分からないまま、それに対して怒りをますます増幅させました。大名はいらいらしながら「つべこべいわずにやれ!」と叫びました。

「仰せの通りに」と忍者は答え、部屋から出て行きました。襖が閉まると、それまで冷え切っていた部屋の温度がふっと元に突然戻ったようでしたが、それすらも大名は気づかないようでした。

第二十五章

忍者の思い付き

その夜、忍者の長は黒装束に身に包み、城から抜け出し、殿様の野営地に忍び込みました。番兵の目を注意深く掻い潜りながら、忍者は殿様の本陣にゆっくり近づいてゆきました。しばらくして、忍者は抜け出した時と同じように、注意深く音を立てずに城に戻り、大名の元へ報告に行きました。

大名が「事は済んだのか?」と聞きました。

忍者は大名に近づき、「はい」と答えました。

大名が「よかろう…」と言いかけたその時、最後の言葉を言い終える前に、忍者は音もなく刀を抜き、大名の首を、その鋭い刀で切り落としていました。血のついた刀をそっと拭いた後、忍者は城の門を開け、兵を迎え入れて、殿様たちと落ち合いました。

忍者は、「お約束の通り、大名は始末いたしました」と忍者は殿様言いました。

殿様は重そうな袋を渡し、「約束の報酬だ、受け取れ。しかし、主人を殺すのに手を貸すような者を我が領内にとどまらせるわけにはいかない。早々に立ち去るのだ。さもなくばお前の命は保障できぬ」と殿様は言いました。

「承知いたしました。これほどのものを頂きましたので、もはや宮仕えをする必要はございません。自分で道場でも構えてやっていこうと思っております」と忍者は答え、城から立ち去ろうとしました。

「そなた、待て」と若殿は言いました。「なぜ、我らに寝返ったのだ?」

忍者は、しばしとどまり、「忍びの身でございますから、侍のような栄誉はございませんが、我が殿の為に、十五年間、全身全霊を捧げていました。しかし、その期間我が殿は私をあまり評価してくださいませんでした。しかし、私はそれでも、殿のためにと今まで我慢に我慢を重ねていましたが、今日になり初めて、我が殿が自分を守ることしか頭になく、家来の命を軽く考えておられるのを知り、ついに堪忍袋の緒が切れてしまいました。仮に私が我が殿をこの危機から助けたとしても、すぐに他国がまた我が殿の命を狙うでしょう」

「そうなるだろうな」と殿様は答えました。

「それが私の答えでございます」と忍者は答え、城から立ち去りました。

第二十六章

ゆきの出発

隣国の城が、殿様の手中に落ちた後しばらくして、殿様は自分の城に戻りました。ゆきは、「お義父上さま、お帰りなさいませ。若殿さまはどちらにいらっしゃいますか。ご無事でございますか」と尋ねました。

殿様は、「心配無用だ。息子はあの国の城に留まっている。ゆき、今から息子に逢いに行きなさい。旅支度は家老が手を貸してくれるだろう」と答えました。それからゆきは家老の助けを借り、旅支度を整えました。

一方、敗北した大名の国のあちらこちらで、このような噂が飛び交いました。

「前の殿様の姫君が来るそうだ」

「なんと?前の殿様の一族は皆すでに死んでしまったはずだが…」

「ゆきという姫君が祖母とともに逃げて、祖母が密かに育てていたらしい。最近、その姫君は隣の国の若殿と結婚したそうだ」

「面白そうだね。その姫君を見に行こう」

しばらくして、ゆきは駕籠に乗って、若殿が待つ国へ向かいました。国境には、老若男女を問わず多くの人々が詰め掛けていました。ゆきはこんな会話を耳にしました。

「あの一行がゆき様じゃないだろうか!」

「えっ、どこに?」

「ほら、あの駕籠に!」

「よく見えないぞ!」

ゆきは付き添いの従者に「止めてください!あの者たちに話があります」と言いました。

馬でゆきに従っていた従者が、「それはいかがなものでしょうか。おやめになった方がよろしいかと存じますが」と言いました。

「この国を治めることになるなら、あの者たちの助けを借りることが最善ではありませんか。どうしても話す必要があるのです」とゆきは答えました。

第二十七章

ゆきの演説

ゆきは駕籠を降り、その側にある岩に登りると、大きな喝采が沸き起こりました。ゆきは村人の興奮を制すように両手を挙げ、そのまま静かになるのを待ちました。人込みが静かになっていくのを見届けてから大きな声ではっきりと、ゆきはこう言いました。

「私は前の大名の娘、ゆきです。父上が攻め滅ぼされた時、祖母が私を連れて小さな村に落ち延び、私はそこで人知れず育てられました」

「数ヶ月前に祖母は亡くなり、その後、私は隣国の都に行きました。幸運と機会に恵まれて、数週間前その町の若殿さまに嫁ぎました」

「その結婚式の日に、この国から来た鬼が町を襲撃し、私を連れ去ろうとしました。でも、狐どののおかげで若殿さまはその鬼の首を切り落とすことができたのです」と言うと、もう一度喝采が沸き起こりました。

「その結婚式に参加していた殿様たちは、この国の大名を倒すことを決心しました。その大名は任を退くことを拒んだので、殿様たちはその大名を滅ぼすために戦を始めました。落城した時、その大名は死にました」とゆきが言うと、またしても喝采が沸き起こりました。

「私が前の大名の娘であり、最後の子孫でもあるので、殿様たちは私に、若殿さまと共に、この国を統治するようおっしゃいました。そういう訳でここに来ました。城へ行く途中なのです」

「父上の時代にはこの国は豊かだったと聞きましたが、父上が戦に敗れ、あの大名の時代になると、このように貧しくなりました。私の夢はこの国をもう一度豊かにすることです。けれども、この夢を叶えるには、皆さんの助けが必要なんです」とゆきが言うと、割れんばかりの大喝采が沸き起こりました。ゆきは岩から降り、駕籠に再び乗ってから、かごの簾を上げたまま、城の方へ進みました。あちらこちらで、ゆきは駕籠を止めさせて、その演説を繰り返しました。

第二十八章

家老の再取立て

その後、ゆきは城に着き、若殿との再会を喜びました。

次の朝、若殿はゆきの従者と話した後、少し渋い顔をしながら、ゆきにこう言いました。「なぜ百姓らに演説したのだ。そういうことを姫がするのは、いかがなものかな…?」

ゆきは、「大名の娘ではありますが、姫として育ったわけではありません。百姓たちの中で育ったので、彼らの気持ちがよく分かります。百姓は自分達の生活が変わってしまうのを恐れているので、変革など好みません。だから、昔の生活に戻るということを話したのです」と、反論しました。

若殿は、「私は怒っているのではない…ただ、私の妻であるという立場を弁えて、そういうことはしないでほしいのだ」と、少し興奮気味のゆきを、なだめるように言ったのですが、ゆきにはその言葉が逆に白々しく聞こえました。

ゆきは「それはどういう意味でしょうか?私がこの国を治めるようにと父上さまがおっしゃったことや、あなたに私を補助してくれるようにとおっしゃってくださったことをお忘れなのですか?それとも、私はあなたの妻として黙って奥に控えていれば良いだけの人間だということでしょうか!?」そういい終えると、くるりと後ろを振り向き、自分の部屋に向かい駆け出しました。走りながら、溢れてくる涙が止まりませんでした。しかし、そんなことに構う余裕もありませんでした。自分の部屋の襖をぴしゃりと閉め、そのまま泣き伏しました。

少しして、部屋の外から「ゆきさま、見知らぬ男の方が、ゆき様にお会いしたいと申しております。亡き殿にお仕えしていたと本人は言っていますが…」という小姓の声が聞こえてきました。

ゆきは涙を拭き、「その方を謁見の間にお通ししてください」と言いました。

小姓が去った後、ゆきは心を落ち着けてから、謁見の間へ向かいました。そこには、小姓と男がいました。

ゆきは、「外で待っていてください」と小姓に言いました。小姓が去ってから、「父上に仕えていたとのことですが、何か証になるようなものはありますか」と男に尋ねました。

男は、「ここに私の印鑑がございます。お父上の時代、この印鑑で多数の公文書に押印してきました。その当時の城は焼け落ちてしまいましたが、もしかしたら焼け残った公文書もあるかもしれません。印影に見覚えはございませんか?」と答えました。

「このような印章はたしかに見覚えがあります」とゆきは言いました。入り口に向かって、「入ってください」と小姓を呼びました。

小姓は中に入り、「はい」と言いました。

ゆきは、「私の部屋から、家系図の本をここに持ってきてください」と命じました。

小姓が小走りに出て行ってから、ゆきは、「父上の治世が終わった後、どこで、何をしていたのですか」と聞きました。

男は、「あの後、逃げ延びた先で、その土地の殿にお仕えしておりました。こちらをどうかお読みください」と、手紙をゆきに渡しました。

ゆきはその手紙を読んでから、「あの殿は結婚式においででしたね。しかし、あなたはお見かけしませんでしたが、どうしてでしょうか」と尋ねました。

「あの時、私は殿の代理として城に残っていたのでございます。しかし、この国を元主君の娘御さまがお治めになるということを聞き、懐かしさのあまり居ても立ってもいられなくなり、殿にお願いしてお暇をいただき、こちらに急いで駆けつけた次第でございます」と男は答えました。

ちょうどその時、小姓が戻ってきて、家系図の本をゆきに渡しました。ゆきは本を開き、そこに押されている印を男の印鑑と見比べました。そしてすぐに、「やっぱり!確かにこれは同じ印です」と興奮して声を出しました。指で示している印影のちょうど側にはゆきの名前や誕生日が書いてありました。

「左様でございます。私は、あの日をよく覚えております。ゆきさまの生まれた日で私がそれを書いて印を押しました」と男は答えました。

「それでは、私の後についてきてください」とゆきは言い、若殿のところに向かいました。「旦那さま、この者は私の父上に仕えていたと申しております。もし本当に信頼のおける人物であるなら、重臣として迎え入れたいのですが」と言って、手紙を若殿に渡しました。

若殿は手紙を読んで、「よく分かった。かの国の舵を取っていたのは彼であったのか」と答え、その男を家老に取り立てました。

第二十九章

狐との会話

その後、若殿は来る日も来る日も朝から晩まで執務室に籠り、政に追われていました。一方、ゆきは城の女達と親しくなろうとしましたが、彼女達はゆきを大名の娘ではなく百姓の娘だとでも言いたげに、ゆきを避け、殿の妻として扱いませんでした。

ある日、ゆきが城の庭を一人で歩いていると、日々の悩みや辛いことなどがふいにぐるぐると頭を回り、ゆきはついに岩陰に腰を下ろし泣き出してしまいました。

ゆきがしくしく泣いていると、後ろで聞き覚えのある声がしました。「大切な人よ、どうして泣いているのですか。まだ幸せに巡り会えないのですか」

ゆきは顔を上げ、後ろを振り向くと、そこにはあの見覚のある動物が立っていました。「お久しぶりですね、ゆきさん」声の主は、狐でした。

ゆきは、「びっくりしました。こんなところにいらっしゃるとは、思いもしませんでした。でも、またお会いできて嬉しいです。立ち話もなんですから、あちらの茶室でお茶を一服しませんか?」と言いました。

すると狐は手を振りながら「いえ、いえ、結構です。私はここにお茶を飲みに来たわけではありませんから…ここに座って、あなたの悩みをお聞きしましょう」と、狐は優しくゆきに言いました。その言葉を聞いたゆきは、岩にへたり込み、堰を切ったように話し始めました。

「生活のすべてがあまりにも目まぐるしく変わっていく上に、相談できる友達もおりません。殿は優しい方ですが、昼間は忙しくて私は蚊帳の外です。新しい家老は政治についていろいろと教えてくれますが、やはり私より殿のそばでお仕えしていますので、私はいつも自分が役立たずで、みんなの足手まといなような気がしています」と、ゆきはさめざめと泣き始めました。

狐は「生活の変化についていけない気がする時は、静かな場所で気晴らしでもしてみたら良いですよ」と言いました。

「気晴らしといっても、どんな事をすればいいのですか」と、ゆきは顔を伏せながら言いました。

狐が、「いろいろあるでしょう。縫い物とか、料理とか、読書とか…」と言うと、ゆきは顔を上げ、「読書ですか。本を読むのは大好きです。でも…」そう言うと、ゆきはまた俯きました。「でも、このごろは読むといっても、政治に関したものばかりしか読んでいなくて…」

「この城には面白い本がありませんか」と狐は聞きました。

「ないようです。前の大名は読書が好きではなかったようなので」とゆきは答えました。「義父の城にはたくさん面白い本があるのですが」

「お父上に本を貸していただけるよう、お願いの手紙を書いてみてはどうでしょう?。あるいは、この町の商人をあたって面白い本を探してみませんか?」と狐は提案しました。

ゆきは「この町の市場では、まだ買い物をしたことがありません。誰も私と一緒に出かけてくれないのです。狐殿、どうか、私と一緒に行ってくださいませんか?」と訊きました。

狐は、「ご主人と一緒に行った方がいいのでしょうが、それが無理なら私があなたと行きましょう。でも、その前に他の悩みについても伺いましょう。城の女性達とは上手くやっていますか」と、目を細めながら訊ねました。その瞳は、まるでゆきの全てを分かっているように見えました。

するとゆきは、少し間を置いた後、伏目がちに答えました。「…いいえ、皆私を避けているようです。私が百姓育ちだからと言って蔑んだり、着ている着物が殿の妻に相応しくないと悪口を言ったり。そういう訳で、皆、私と話もしてくれません」

狐は、ふうむと頷きながら、「茶道家のような格好をしていたのでは、殿の妻として相応しくないでしょうね。買い物に行った時、ついでに着物も買いましょう。お父上の都には、誰か顔見知りがいますか?」と言いました。

ゆきは、「あの…温泉の女将さんがいます」と答えました。

狐は、「女将さんですか。女将さんなら人を使うことが出来るでしょう。あなたの身の回りの世話をしてもらうために、誰かに城で働いてもらうようお願いすれば良いかもしれませんよ。それに、私の娘のうちの一匹が人間に非常に興味を持っています。もうすぐここへ訪ねてくると思います」と言いました。

それを聞いたゆきはばああっと笑顔になり、「娘さんがここへ訪ねてくるなんて、楽しみです」と答えました。

狐は、「他にも何か悩みがあるのではないでしょうか?例えば政治のことなど。あなたはまだお若い。確かお年は十七を抑えて間もないはず。あなたが男であって、生まれた時からずっと政治のことを勉強してきたのなら、国を治めることは何の問題もないのでしょうが、あなたには、まだまだ経験が足りません。女が国を治めるなどということは非常に稀なことですよ。男であるご主人が自分で政務を執りたがるのは自然なことです。難しい問題ですね。しかし、もしあなたがこのまま勉強を続け、ご主人と家老との評議に出席し、気の利いた質問や良い提案が出来るようになれば、そのうち政治の深い部分にまで参加することを許されるかもしれませんよ」と言いました。

ゆきは「そうですね。みんなと仲良くすることが出来るようになれば、この胸の痛みや、吐き気なども治るかもしれません」と言いました。

狐は、「胸の痛みや吐き気…??このようなことを私から申すのは不躾ではありますが、一番最近に来た月のものはいつ頃だったのでしょう?」と聞きました。

ゆきは、「あの、祝言の前でした…二ヶ月ほど前だったでしょうか」と答えると、狐は、「ゆきさん、貴方が情緒不安定なのも無理はない。その吐き気はきっとつわりです。あなたは妊娠しているのです」と言いました。

ゆきは、飛び上がって驚きました。「妊娠?私のお腹に赤ちゃんがいるのですか…??」しばらく呆然としていたゆきでしたが、思いだしたように「今すぐ殿にお伝えしなければいけません!」と、城へ振り向いて駆け出そうとしました。そのゆきの前には狐がもう歩道をふさいでいました。

「待って、待ってください」と狐は言いました。

「なぜ止めるのです!早く、早くこのことを殿にお伝えしなければ!!」と半ば錯乱状態にあるゆきは狐を避けて城の入口へ向かって駆け出しました。しかし、その途中、何かに気がついたかのように、足を止めて、見下ろしながら手をお腹に当て、再び小走りで進みました。

狐は首を振りながらくすくすと笑いました。「百年近く生きているのに、まだまだ人間も女も分からないな」と呟き、ゆきについて行きました。

第三十章

狐子の紹介

それからゆきは、草履を脱ぐことを忘れるほど興奮しながら若殿のところに駆け寄りました。

襖を開けるやいなや、「旦那さま、大変すごいことが!赤ちゃんが!」と叫びながら、若殿の元に走り、彼の両手を握り、机から引きました。

若殿は、何事かとぽかんとしたまま、「待て、待て。落ち着け。何が言いたいのだ?私が忙がしいのを知っているだろう?」といぶかっていると、開いた襖の外からゆきについて来た狐が声をかけました。「ゆき殿は身籠ったようです」

それを聞くと、若殿は、「真か。それが真なら、大変喜ばしい」と、興奮のあまりゆきを抱きました。

二人がようやく落ち着くと、若殿は、「ああ、狐どの、失礼しました。ようこそお出でくださいました。突然のご訪問はどういった訳でしょうか」と聞きました。

狐は、「つい今し方、近くで鼠狩りをしていると、誰かが泣いているのが聞こえたのです。どこかで聞いたことのある声だな…と思い、その声のする方へ行ってみると、そこには、座り込んで泣いていらっしゃるゆき殿がおられたのです。大変驚きました。いったい、どうしてゆき殿が泣いているのだろうかと。若殿さまと結婚して、お父上の国に帰ってきたのだから、私はてっきり、幸せな日々を過ごしていらっしゃることだろうと思っていましたが、そうではなかったようです。ゆき殿は、私に悩みを打ち明けてくださいました」と、若殿の顔をまっすぐに見つめながら言いました。

それを聞いた若殿は驚き、「なんと。ゆきが泣いていたのですか。今の様子を見ると、つい今し方泣いていたとは信じられません。どのような悩みがあると申しましたか」と問いました。

狐は言いました。「ゆき殿の悩みは三つあります。まず一つ目。近頃、生活の変化が大きいので、気分が落ち着かないことがあるようです。私が何か気晴らしを勧めると、ゆきどのは読書が好きだということが分かりました。ただ、ここには面白い本がないようでしたので、お父上に、面白い本をお貸し下さるように手紙をお書きになるように、また市場でも探してみるといいでしょうと勧めました」

「次の悩みはというと、ゆきどのが百姓のように育ち、いまだに茶道家のような着物を着ているので、それを好ましく思わない人がいるということです。それ故に、市場で殿の妻として相応しい着物を買い、また大きな町の温泉の女将へ、ここでお仕え願う手紙を送るようにと勧めました。女将はきっとゆき殿の支えになってくれるでしょう。それに、私の娘の内の一匹が人間について興味津々のようですから、もうすぐこちらへ訪ねてくるでしょう。あの子もゆきどのの力になれると思います」

「三つ目の悩みは、ゆきどのがこの国の政治から疎外されていると感じていることです。言うまでもなく、ゆきどのは勉強を続けて、あなたと家老との評議に出席した方がいいと勧めました。評議で気の利いた質問を投げかけたり、良い提案を待ち出してみることも勧めました」

若殿は、「評議に参加したいというのなら、明日の評議に出席してみるのもいいでしょう。着物や本のことなら、城の御用商人を呼べばよいではないか」と政の背負いで疲れているように言いました。

ゆきは、「お抱えの商人があるのでございますか。でも、私は自分で買い物をしたいのです。一緒に行ってくださいませんか。それが無理なら、狐どのと行ってもよろしいでしょうか」と頼みました。

その途端に、小さな声が聞こえました。「私も行きたい」

狐は、「悪戯っ子、姿をあらわせ。いつから私たちを見ていたのか」と棚の方へ向かって呼びかけました。

棚の下から、鼠が出てきたと思うと、あっという間に十五、六歳の女の子の姿に変わりました。

「まぁ、父上ったら。『悪戯っ子』じゃなくって、『狐子』と呼んでください」と言いました。

その娘は背が低くて、長い赤毛で、悪戯っぽく輝く黒目をして、とても高級そうな着物を着ていました。

「私は、今まで、京でいろいろなうわさ話を楽しく聞いていたのよ。それから家に帰る途中で、この国を渡すと、遠くから父上の『私の娘のうちの一匹が人間に非常に興味を持っています』と話す声が聞こえたの。私のことだとすぐに分かったけど、なんで『一人』じゃなくて『一匹』なんて言うの?この、私の姿が『一匹』に見える?とにかく、父上の話し声を聞いてから、鼠の姿に化けて声の方に急いでいったわ。そしたら父上は女の子と話しているじゃない。きっと、あれが例のゆきという娘さんなんだろうと思って、父上が女の子と一緒に出るところに、ついてきたの。買い物のことを聞いたときは、さすがにもう黙っていられなくなっちゃって」と早口でまくしたてました。

狐は、「この子がもう一度口を開く前に紹介をしておいた方がよさそうですね。これが今話した娘です。狐子や、こちらはこの国の新しいお殿様と、前に話したゆきどのだよ」と言いました。

狐子は、「初めまして。私もゆきさまと一緒に買い物に行けると嬉しいのですが。しばらくこちらに泊まってもよろしいですか」と言いました。

若殿が「初めまして」と言うと、ゆきは、「初めまして、よろしくね。一緒に市場へ行きましょう」と答えました。

若殿は、「私は忙しいので一緒には行けなくてすまない。狐どのたちとなら、行ってもいいでしょう」と言い、少し安心そうに机に戻りました。

狐は、「お殿様も時々はお休みになられた方がよろしいかと存じます。もし気が変わられましたら、ご一緒に参りたいと存じます。それではまた後ほどこちらへ参ります」と、人間の姿に化けて、ゆきと狐子と一緒に立ち去りました。

第三十一章

市場へ

ゆきは狐達と一緒に市場へ向かう途中、狐子といろいろなことについて話しました。

ゆきは、「京から来たばかりなの?京は面白そうね。でも遠くない?私も行きたいのだけど、何日くらいかかるの?」と訊きました。

狐子は答えました、「狐のおまじないがあれば、あっという間に着いちゃうわよ。まぁ、人間なら数週間はかかるでしょうね」

ゆきは、「狐子ちゃん、それは、他の人と一緒でも大丈夫なの?」と聞きました。

狐子は、「それは無理。狐のおまじないは、自分にしか効かないの」と答えました。

ゆきは、「それは残念だわ。京では、お姫様がそういう着物を着るの?」と尋ねました。

「そうよ。公家のお姫様だって着てるんだから」と狐子は答えました。

そんなふうにおしゃべりを続けながら、女の子達は狐の後について行きました。

一方、その城下町の人々はゆき達を見て、このように話していました。

「あそこに娘さんがいるね」

「あの赤毛の娘さんのことかい?」

「違う。あの赤毛と話してる娘さんだよ」

「ああ、それがどうした?」

「あの人、ゆき様だと思わないか?」

「そうだ、そうだ。この前、ゆき様が岩の上で演説していたのを、俺は見たよ。その時も同じような着物を着ていたから、あれはゆき様に間違いない。それにしても、殿様の奥方が市場に行くというのも珍しいな。おい、ついて行かないか?」

「そうだな。面白そうだな。ついて行こう」

「先に行っててくれ。ついて行くのもいいが、俺はまず家に寄ってからにするよ。うちのかみさんがゆき様を見てみたいと言ってたから教えてやらないと」

「そりゃいい思い付きだ。家の子供達もゆき様を見たいと言ってたよ。家族揃ってみんなで市場へ行ってみよう」

あちらこちらで、ゆきに気付いた人達がささやき始めました。早速、ゆき達の後をつけ始める人もいれば、家族・親類・友人達を集めて大勢で市場へ向かう人達もいました。

第三十二章

呉服屋の中

しばらくして、ゆき達は市場に着き、そこで呉服屋を探しました。思いのほか早く見つかりました。ゆきが「ごめんください」と中に入ると、「いらっしゃいませ!きれいな反物がたくさんございますよ」と、奥から優しそうな初老の男性が出てきました。

ゆきが、「これと同じような着物を仕立てることはできますか」と、狐子の着物を指差し訊ねると、呉服屋は驚いたように、「このような仕立ては初めて見ました。恐らく、京の新作なのでございましょう。私どもは呉服屋ですので反物の扱いには自信がございますが、そのような高級な、作ったこともない品を上手く仕立てられるかどうか…。しかし、私の兄はこの町一番の仕立て屋でございます。兄なら仕立てることができるでしょう。ゆき様の採寸をした後に、お連れの方のお着物をしばらくお貸しいただければ、数日後には、同じような着物をお届けできるかと存じます。お待ちいただく間、お連れ様にはこちらにございます、お好きな着物をお召しになって頂ければよろしいかと存じます」と言いました。

狐子は嬉しそうに、「それでは、ご好意に甘えさせて頂きます」と、いそいそと店の着物を選び始めました。

ゆきが、「あの、なぜこんなに親切にしてくださるのですか?」と訊ねると、呉服屋は、「以前、ゆき様がこの町にいらっしゃった時、私は駕籠を降りて演説をされたゆき様のお顔を拝見し、お声を聞いていたのでございます。先ほど、あなた様がこの店に入っていらした時より、その時の女性とずいぶん似たお方だと思っておりました。そして、今しがたお声をお聞きし、ゆき様に間違いないと確信いたしました。私はあの時のお話に、たいそう心を打たれ、確信したのです。ゆき様は我々の味方だと。そのようなお方からのご注文に、私としましては精一杯のことをしない訳にはいかないでしょう」と、微笑みながら答えました。さらに呉服屋は、「私はこれから少し失礼させていただき、兄を連れて参ります。どうぞこのままお待ちください」と、言い残して店から出て行きました。

ゆきは、「まあ、なんとご親切なお方でしょう…それにしても、あの方が私の顔や声を覚えておいでだとは、驚きだわ」と言いました。

狐はいたずらっぽく笑いながら、「店の外を見れば、その理由が分かりますよ」と、店の入り口の方を指差しました。

するとそこには、ゆきの顔を一目見ようとする人々が、押し合いながら店の外に集まっていたのです。

「父さん、ゆき様はあの女性?」

「とっても綺麗な人だね」

「どの店にあのお姫様がいるの?」

「どうやら、あの呉服屋にいらっしゃるようだよ」

「お父さん、お姫様の姿を見たいよう!肩車して!」

「ほら、息子や、上がって」

人々のざわめく声が店の外から聞こえてきます。ゆきがおそるおそる戸の陰から外を覗くと、そこにはゆきを一目見ようとする、人々がたくさん集まってきていました。ゆきは驚きと恥ずかしさのあまり、また顔を引っ込めてしまいました。「狐殿!あんなに大勢の人達がこっちを見ているわ。どうしましょう」

狐は、笑いながら「そんなにおろおろするものではありませんよ。岩の上で御自分の意見を述べられていたあの時と同じように、もっと堂々としていらっしゃればよいのです」と言いました。

ゆきは、「あの時と今とでは全然違います。今からこの人だかりの中を歩かなくてはならないなんて。それに、あの時は義父上の家臣が私と共に旅をしてくださいました。しかし今は私とあなただけなのですよ」と答えました。

狐は、「まあまあ。そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。あの声を聞いてみてください。彼らはただ、ものめずらしいだけなのです。その上、ゆき殿は一人ではありません。狐が二匹」

「二人!」と、店の奥から、狐子が狐の言葉を遮って叫びました。

狐は狐子をちらっと見て続けました、「…側にいます。狐が一匹で」

「一人!」

「百人の家臣が守っているより安全です。何があっても、我らがいれば、二百人の兵より心強いですよ」

狐子はゆきのそばに来ました。「父上の言う通りよ。それより、この着物はどう?」

ちょうどその時、呉服屋が兄の仕立て屋を連れ、戻って来ました。そして、ゆきの採寸が始まりました。

第三十三章

面白い本はどこだ?

仕立て屋がゆきの採寸をして、狐子が着物を着替えると、ゆきは呉服屋の兄である仕立て屋におずおずと「あの、つかぬことをお伺いいたしますが、面白い本を探しているのですが、どこかお心当たりはございませんでしょうか」と訊ねました。

呉服屋は、「時々、本を売る行商人がこの町に参りますが、残念ながらここの所、とんと見かけませんなあ」と言いました。

ゆきが「そうですか…」と呟くと、呉服屋は、「兄さん、どう思う?」と仕立て屋に尋ねてくれました。

すると仕立て屋は、「本さえお借りできれば、この町にいる代書屋が本をお作りいたしますよ。どのような本をお探しでしょうか」とゆきに聞きました。

ゆきはばっと笑顔になり、「『源氏物語』が大好きなんです。この町に、お持ちの方はいらっしゃるかしら」と聞きました。

仕立て屋は顎に手をやり、ふうむと頷き、「この町の庄屋さまは、なかなかの読書家だとの評判ですので、そのような本をお持ちかもしれませんね…おいお前、どう思う?」と呉服屋に聞きました。

呉服屋は、「確かに。それに、代書屋なら誰がどんな本を持っているのかを知っているでしょう」と答えました。

ゆきは、「庄屋さんと代書屋さんですか。その方々はどちらにいらっしゃいますか」と尋ねました。

呉服屋は、「代書屋の店は、市場の反対側でございます」と言いました。

仕立て屋は、「はい、それに庄屋様ですが、先ほど私がこちらに戻って参ります時、ちょうどこの店の前で、見物人の中に庄屋様の姿をお見かけしました。ゆき様の採寸をいたしに急いでいたので、軽く会釈だけしました」と加えました。

ゆきは、「そうですか。では、行ってみます」と、店を出ようとしましたが、途中で足を止めて、商人たちの方に向き直りました。「呉服屋さん、私を庄屋さんに紹介してくださいませんか」

呉服屋は、「ゆき様のお役に立てるなら喜んで」と言い、ゆきと狐たちの後について店を出ました。

第三十四章

市場の中

市場

ゆきたちが店を出ると、大きな喝采が沸き起こりました。一人の老人が箱の上に上り、静かにしなさいと皆を宥めると、群集は静かになりました。その後、呉服屋は、「ゆき様、こちらが今お話しした、町の庄屋でございます」と、その老人を、「庄屋様、こちらはゆき様とお連れの方でございます」と、ゆきを紹介しました。

ゆきは少しはにかみながら、「初めまして、庄屋殿。こちらは私を手伝ってくれている、新しい友達の狐子とその父上です。よろしくお願いします」と言いました。

庄屋は箱から降り、深々と頭を下げてゆきに挨拶をし、そばに立っている家族を、孫に至るまで紹介しました。

ゆきは庄屋の家族に挨拶を返した後、庄屋の方へ向き直り、「『源氏物語』のような面白い本を買いに来ましたが、ここには本を売る商人さんがいないようですね。でも、呉服屋さん達が庄屋殿なら本を貸してくださるかもしれないと仰ったので、あなたにお会いしたくなりました」と言いました。

庄屋は頭を下げ、「もちろん、家に来て頂けるなら、奥方様には何冊の本を借りていただいても嬉しゅうございます。今、来ていただけますか」と、市場に面した屋敷の方にちらりと目をやりました。

ゆきはしばらく首を傾けてから、「お邪魔したいのですが、その前に、この市場のお店の方々を、私に紹介して頂けないでしょうか?」と尋ねました。

庄屋が「もちろん」と言うとすぐに、庄屋の妻が、「あなた、ゆき様がお出でくださるのでしたら、私たちはここで失礼して、一足先に家に帰り、食事の準備をしておきます」と立ち去ろうとしました。

すると、まだ幼さの残る男の子が庄屋の妻に、「おじいさんと一緒に残ってもいい?」と言いました。

それを聞いたもう一人の女の子が、「おばあさん、私も残っていい?弟のお守りをしておじいさんとゆき様の邪魔しないように見張ってなくちゃ」と庄屋の妻に言いました。

庄屋の妻は、「おじいさんは大事なお話をしているから、私と帰りましょう」と答えました。

ゆきは、「大丈夫です。構いませんよ。私と一緒にいらっしゃい」と、優しく孫達に言いました。そして、残りの子供達を振り返りました。「賑やかでいいですけれども、皆が私達といたら、おばあさんを手伝ってあげる人がいないでしょう?食事の時、また会いましょう」と言いました。

庄屋の妻は、「そう言ってくださって助かります。では、他の者は皆、帰りましょう」と、立ち去りました。

それから、ゆき達は市場を歩き回り、いろいろな商人やその町の有力者などを紹介してもらいました。

その間、庄屋の孫息子は狐子と話していました。その子は狐子に、「ねえ、どうしてお姉さんの髪はそんな色なの?」と聞いたり、くるくると変わる狐子の表情に、「その顔、おかしい!ねえねえ、もっと面白い顔して」とせがんだり、楽しく談笑していました。

その一方、市場を歩きながら庄屋の孫娘はゆきと話していました。「お姉さまはお姫様として生まれたのに、百姓の中で育って、大きな町で有名な茶道家になったんでしょ。すごいのね!それから、若殿様と結婚して、お父さまの国に帰ってきたんですね。まるでおとぎ話のようだわ」と、羨望の眼差しでゆきを見つめながら言いました。

代書屋

二人は楽しく談笑しながら、代書屋に向かいました。ゆきが代書屋の戸を開け、「代書屋さん、本をここに持ってくれば、写本を作ってもらえるそうですね。庄屋殿の他に『源氏物語』のような本を貸していただけそうな方をご存じないでしょうか」

代書屋は、「そのことでしたら、庄屋様にお尋ねになるのがよろしいかと存じます。本を売る行商人が来るたびに、あのお方はいつも真っ先に行かれます」と、町の庄屋に軽く目礼しました。

ゆきは、「ありがとうございます」とお礼を言い、次の店へ向かいました。

すべての店を訪ね終えて、人々がほとんど去った後、ゆきたちは呉服屋に戻りました。そこで狐子は元の着物に着替え、それから皆で庄屋の家へと向かいました。

第三十五章

庄屋の家の中

しばらくして、ゆき達は庄屋の家に着きました。庄屋の妻が玄関先で、「ゆき様、拙宅にようこそおこしくださいました。おかえりなさいませ、あなた」と笑顔で出迎えました。

「ただいま」という庄屋の声に続き、ゆきが「お邪魔します」と言って、家の中に入るやいなや、あっという間に、ゆきと一緒にいた庄屋の孫たちを、その兄弟・従兄弟たちが取り囲みました。しばらくして、「何をしてたの?」とか、「ゆき様はどんな人?」と話す声がその人垣の中から聞こえました。その後、ゆき達と一緒にいた庄屋の孫息子は、ゆきの後ろから入ってきた狐子のところに来て手を掴み、「お姉ちゃん、市場の時のように、またおかしな顔をして」と狐子に言って、子供たちの中に引っ張って行きました。程なくして、狐子の百面相を見ている庄屋の孫達の間から笑いの混じったはしゃぐ声が聞こえてきました。そんな楽しそうな声を聞きながら、庄屋の妻は娘たちに手伝わせながら食事の支度をしました。湯気が、美味しそうな匂いと共に、台所から漂ってきました。ふと、ゆきはおばあさんと一緒に住んでいた頃のことを思い出しました。貧しかったけれど、おばあさんと一緒で楽しかった日々…。そんな懐かしい思い出に浸っていると、庄屋の妻と、娘が「ゆき様のお口に合うか分かりませんが」と言いながら、お盆に食事を載せて持ってきました。

ほかほかの炊き立てご飯、魚や貝の煮付け、お漬物、そして沢山の山菜類、おみおつけも、まだ湯気が立っています。海の幸、山の幸をこんなにも揃えることがどれだけ大変なことか、ゆきにはよく分かっていたので、尚一層、庄屋の妻の心遣いが心に染みました。ゆきはそれを心からありがたく、美味しく頂きました。

食事が終わった後で、ゆきは庄屋に、「庄屋殿は読書家だとお聞きしたのですが」と訊ねました。

庄屋は、「それほどではございませんが、時々本を読むのを楽しみにしております」と答えました。

ゆきは、「前に申し上げましたが、『源氏物語』のような本を市場で探していたところ、呉服屋さんが、庄屋殿に聞いてみたら良いと教えてくれました」と言うと、庄屋は、「それでしたら、家内とお話になるのが宜しいかと存じます」と教えました。

ゆきは、『源氏物語』についての助言がもらえ、とても嬉しくなり「このお礼というわけではないのですが、何か私にお役に立てることがありますか。何か力になれたら嬉しいのですが」と、庄屋に尋ねました。

すると庄屋は、神妙な面持ちで、「この町から唯一村へ通じている道のことですが…。ここ数年で荷車が通れないほど悪くなったそうでございます。整備もされず、大雨で押し流されたり、沿道の木々が生い茂ってきたりして、道幅が狭くなっている箇所もあると聞いております。百姓達は作物をこの町へ運ぶのに大層難儀をしているようでございます」と言いました。

百姓育ちのゆきは、百姓達の苦しみを聞き、胸を痛めました。「そうですか。ずいぶん苦労されているのですね…。殿に必ず報告しておきます。一刻も早い改善が必要ですね」それから、二人は国について話し込みました。囲炉裏の火が消えそうになるまで、二人の会話は、途切れることなく、続きました。

やがて、興奮していた孫達も一人、二人とあくびをし始め、一人ずつ、布団に寝かされました。狐が「失礼ですが、もう夜も遅うございます。殿がゆき殿のお戻りをお待ちかねかと存じますが、よろしいのでございましょうか」と二人の会話に口を挟むと、ゆきはふと本の事を思い出し、庄屋の妻にそのことについて訊ねてみました。

庄屋の妻は、数十冊の本がある部屋にゆきを案内しました。驚くゆきを横目に、庄屋の妻は、「どうぞ何冊でもお持ちください。ゆき様のお役に立てるならば、こんなに嬉しいことはございません」庄屋の妻の言葉に心を打たれたゆきが、「本のお礼に、何か私に出来ることがあるでしょうか?」と聞くと、妻は「お礼ですか…?」と、ゆきの思いがけない申し出に驚いた顔をしていましたが、しばらくして、「ゆき様は有名な茶道家でいらっしゃるということをお聞きしました。もしゆき様のお点前を拝見させていただけたら大変嬉しいのですが」と、少しはにかみながら伺いました。

ゆきは「もちろん、茶道具をしばらく借りてもよかったら、皆に見せます。茶道がつまらないなら、茶道具と関係なく、きっと私のせいでしょう」と言い、皆の前でお茶を点てました。それは、見る者を魅了する、素晴らしい所作でした。その後で、ゆきは庄屋の妻の助けを借りながら面白そうな本を選び、狐たちと一緒に城へ戻りました。

第三十六章

城へ帰る

ゆきが狐や狐子と一緒に城へ向かうと、出た時の空にあった太陽もすっかり暮れて、代わりにもう空を高く上った望の月が淡く帰り道を照れていました。若殿がいらいらしながら、ゆきの帰りを今か今かと待ちわびていると、ようやくゆきたちが、城の門に向かって歩いてくるのが見えました。若殿はゆき達一同の元へ走りました。ゆき達が「まあ殿!いったい…」と最後の言葉を言う前に、若殿は「ゆき、なぜこんなに遅くまで帰ってこなかったのだ。市場はもうとっくに閉まっている時間だろう。それに、買い物をしていると思っていたのに、本一冊しか持ち帰っていないようだが、今までどこにいたのだ?ずっと待っていたのだぞ」と、息を切らせながら言いました。

ゆきが若殿のそんな姿に少し狼狽しながら、「あの…市場にいました。市場の仕立て屋さんが狐子のと同じような着物を作ってくれると言ったのです。それから、町の庄屋さんに会ったり、一緒に市場のあちらこちらに行ったり、いろいろな方を紹介してくださったりしました。その後、お宅にお邪魔し夕食をいただいて、親しくお話をいたしました。そして、奥様がこの本を貸してくださったのです」と説明するのを受けて、狐が、「その通りです」と加えました。

ゆきはさらに続けました。「どうしてそのように厳しい口調でおっしゃるのですか。私は子供ではありません。祖母が亡くなった後、一人であの大きな町に歩いて行ったではありませんか」

若殿が、「しかし…」と口籠ると、ゆきは、「結婚する前は、毎晩城から一人で帰ったではありませんか。忍者に襲われた後も、それをそのまま続けたではありませんか」と遮りました。

「しかし…」

「それに、今回私は一人ではありませんでした。こちらの狐どのは私を何度も助けてくださったではありませんか。この方と一緒にいるのに安全でないとすると、一体どこにいるのが、安全とお考えでしょうか」

「しかし…」

ゆきは、「それでは、お休みなさいませ」と言い放つと、そのまま自分の部屋に帰って行きました。

若殿は、「しかし、心配でなかったら、このように言いはしない」と、少し戸惑ったようで溜息をつきました。

狐が、「ご心配ではあられましょうが、もう少し穏やかな口調で話された方が宜しいかと存じます」と諭すように言うと、若殿は、「どうしたらいいのだ?」と聞き返しました。

「これからゆきどのを一人の大人として扱った方が宜しいかと存じます。私はこれで失礼させていだきますが、ついでに鼠を探してみることにいたします」と言うと、狐は、人間の姿から本来の姿に戻って、立ち去りました。

狐子は、「私が使わせていただけるお部屋を拝見してから、ゆきちゃんのお部屋を訪ねてもいいですか。私がお話をすれば、ゆきちゃんも落ち着くかも知れません」と言いました。

そして若殿は下女を呼び、狐子を部屋に案内し、次いでゆきの部屋に連れて行くよう申し付けました。

第三十七章

狐子との会話

狐子がゆきの部屋に入ると、ゆきは隅に座って床をじっと見つめたまま、本を抱えて涙を流していました。それを見た狐子は、ゆきの肩を後ろから叩き、「ゆきちゃん、さあ、涙を拭いて。大切な本が濡れちゃうよ」

狐子が背中越しに優しく声をかけると、ゆきは狐子に背を向けたまま、「殿は私のことを怒っているのかしら?」と、涙を拭いながら尋ねました。

狐子は「嫌いになったわけじゃないわよ。ゆきちゃんの帰りが遅くなったから、殿は心配だったのよ。だから、ついつい本当のお気持ちよりきついお言葉になっちゃったのね。ゆきちゃんがいなくなった後、殿はとても寂しそうだったわ」と、優しく元気づけるように言いました。

ゆきは、狐子の方を振り向き、「本当?」と、まだ涙の残る目で狐子を見つめながら訊ねました。狐子は、「うそなんかじゃないわよ。それより、手紙を書かなくちゃいけないと言っていたじゃない。ほら、蝋燭に火を点けて、その手紙を書いてみましょうよ」と、ゆきの肩をぽんと叩きました。

ゆきは、狐子の手に籠った優しさを感じ取りました。その後、二人はゆらゆらと揺れる蝋燭の灯の下で、殿様と女将宛の手紙を書きました。

第三十八章

評議

次の朝、評議の前に、ゆきは家老のところに行き、「この二通の手紙を、あの大きな町に送りたいのですが、自分の印章がないので、まだ封じていません。このまま封をして、町へ届けた後で、私に相応しい印鑑を作ってくださいませんか」と訊ねました。

家老は、「かしこまりました。では、ゆき様のお父上と同じような印鑑ではいかがでしょうか」と答えました。

ゆきは、父親と同じような印鑑が手に入ると思うと、嬉しくなり、家老にお礼を言い、その場を立ち去りました。

少しして、ゆきは若殿と家老の評議に参加し、町の人達が例の道のことで困っているということを報告しました。「あの道は、いつ頃からあのような状態なのでしょうか?直ちに改善させなくてはなりません」とゆきが言うと、家老は、当時のことを思い出すように、「良い道というほどではありませんでしたが、今よりはずっとましでございました。当時、それぞれの村は、税の一部を免除される代わりに、道を整備する義務を負っていました。ひょっとすると、後の大名がその取り決めを変えてしまったのかも知れません」と答えました。

若殿は家老に、「現在はどういうことになっているのかを調査してくれ。すぐにだ!」と言うと家老はははっと言い、部屋を飛び出しました。そして若殿は、一度咳払いをし、ゆきの方に振り向きました。「ゆき、このことを伝えてくれてありがとう。昨夜は、つい厳しい物言いになってしまい、悪いことをしてしまったと反省している。狐どのが言ったように、これからはあなたを一人の大人として扱った方がいいようだ」と、優しい笑みを浮かべながら、ゆきに言いました。その笑顔は、今までゆきが見た若殿の笑顔の中で、一番優しい笑顔でした。

そんな笑顔を見て、ゆきは顔をぽっと赤らめながら、「いいえ、遅くなると分かった時点で誰かに言付けを頼むべきでした」と、少しうろたえたように、俯き加減で言いました。「…しかし国のこととなると話は別です。まだこの国をよく知りません。お腹が大きくなる前に、それぞれの村を訪ねて、さまざまな問題や農民の不満などを直に聞いておきたいと思っています」と、若殿の目を見つめながら、きっぱりとした調子で言いました。

若殿は、「ここに留まっ…」と言いかけると、ふと口籠って、狐の言葉を思い出しました。「分かりました。しかし今回ばかりは、私も一緒に行こうと思います。家老は私の代理として城に残りなさい」と、たった今戻ってきた家老に強い口調で言いました。すると、家老は、「あのような狭くて凸凹した道を駕籠での往来は無理でございましょう。ゆき様は乗馬をなさいますか」と、ゆきに訊ねました。

ゆきが馬に乗ったことは一度もないと答えると、若殿は家老に、「厩の者に気性の優しい牝馬を選ばせて、出発までゆきに毎日乗り方を教えてやってほしい。それと、それぞれの村に使者を送っておきなさい」と命じました。

それから他のことについても話しました。

第三十九章

旅の準備

ゆきが村を訪ねることを耳にした狐子は、「私も行きたい」と言い出し、若殿はそれを許しました。

旅に出るまで、ゆきは評議に立ち会ったり、家老から統治についての心得を教わったり、厩の者から馬の乗り方を学んだりして、忙しく暮らしていました。その一方、狐子は城の女性たちの言動を調査していました。人間の姿で彼女たちに交ざり、「この着物が気に入ったの?京のお姫さまは皆このような着物を着ているのよ。市場の仕立て屋は、ゆきちゃんのためにこれと同じような着物を作ってるわ。あ、ゆきちゃんと言えば、あなたたち、彼女のお点前を見たことある?私は京一番の茶道家を見たことがあるのだけど、それでもゆきちゃんのお点前を見た時はあまりの美しさに、思わず息を呑んじゃったわ。お願いしたら、もしかしたらあなたたちも見せてもらえるかもね」などと、城の女性達にいうこともありました。

また時には狐子は他の姿に化けて現れることもありました。侍女や、小姓や、猫の姿に化けて、城のあちらこちらで、いろいろな会話を聞くのです。もし、ゆきの悪口を話している人がいたら、すかさずおまじないでその人の指に針を刺したり、床板で躓かせたり、持っている物を落とさせたりしたのです。たまたまゆきが側にいて、狐子のいたずらに困っている者達を助けたこともありました。ゆきの心の優しさ、美しさは、日ごとに皆に伝わり、悪口の代わりに、「お点前を見せてほしい」という言葉が城には飛び交うようになったのです。

村への出発の前日に、若殿は城に仕えている者達全てを招いた盛大な宴を催しました。宴が一段落したところで、ゆきは新しい着物に着替え、お茶を点てました。ゆきの着物の優雅さとお点前のと見事さに、皆は感動のあまり言葉を失ってしまいました。そして、その後しきりにゆきを褒めたたえました。

第四十章

最初の村

次の朝、ゆきと若殿は家来と共に最初の村へ向かいました。しばらくすると、道が狭くなり、二頭の馬は肩を並べて歩くことができなくなりました。さらに道がでこぼこになるにつれて、かろうじて一頭通るのがやっとの悪路になってしまいました。若殿は、「酷いな。道がずっとこのような状態が続くならば、兵をどこかへ急に派遣させたい時に、まったく使い物にならないではないか。このまま放っておくわけにはいかない」と言いました。

なんとかゆきたち一行は村に到着することができました。しかし、村には人気がありませんでした。家来達がしばらく捜し回ると、そのうちの一人が、ぽつんと立っている一人の老人を見つけました。

その家来が、「おい、じじい、他の者はどうした?」と聞くと、老人は辛そうに言いました。「お侍さまが村にくれば、理由もなくわしら百姓を殺したり、わしらの妻や娘の純潔を汚したり、来年植えるための米まで取り上げたりするので、わしらは苦しみます。それでもお殿さまがじきじきに来られるよりはましであろうと思っておりました。今日、お殿さまがここにいらっしゃるおつもりということを伺いまして、村の者は皆逃げ出し、身を隠しております。わしはどうせ老い先短い身ですので、ここに一人残っておりました」

その家来が、「無礼者!侍の悪口を言えばどうなるか教えてやるぞ!」と、刀を抜こうとしましたが、「お止めなさい!」という鋭い制止の声が響きました。思わず振り向くと、そこにはゆきがいました。「私共は村の人々を傷つけるつもりはありません。その人を放しなさい」とゆきは命じました。ゆきの言葉に若殿が顎で合図するのを見ると、家来は老人を放しました。

ゆきは馬から降りて、老人のところに近づきました。「おじいさん、父上の時代にも農民がそんな扱いを受けることがありましたか」と聞きました。

すると、老人は突然顔を上げ、動揺したように、「まさか、今お父上とおっしゃいましたか。もしや、あのお方をお父上とおっしゃるのなら、あなたはゆき様ではございませんか」と、おそるおそるゆきに訊ねました。ゆきはこくりと頷きました。すると、老人は、「やっぱりそうですか…。ゆき様、どうかお聞きください。百姓の生活はいつもつらいものではございますが、これほどつらい時代は今までありませんでした。貴方のお父上の時代は、お侍が理由もなく百姓を殺すようなことはありませんでした。万が一そのようなことがあれば、お父上は直ちにそのお侍を罰されたものです。しかし、後代のお殿さまは、どのような事情があろうと、いつも悪いのは百姓ということになり、決してお侍を罰することなどありません。それどころか、百姓は取るに足らぬ奴らだと言われて、逆に罰を受けております」

ゆきは少し憤慨したように、「それは本当に酷い話です。侍も、農民も、公正な裁きを受けるべきでしょう」と言いました。老人はずっと黙っていました。言うべき言葉が見当たらないのでしょう。少しの沈黙の後、ゆきは「他の住民達に、私が皆と会いたいと言っていると伝えてください」と言いました。

その老人は、「分かりました」と言い、急いで村人を集めました。ほどなく、村人が一人、また一人と集まってきました。ほとんど全ての村人が集まってから、若殿とゆきは農民一人一人の話を聞きました。そして、村がその辺りの道を整備するお返しに、税を軽くすると約束しました。

第四十一章

女将の到着

ゆき達はその村に二日間滞在した後、次の村へ向けて出発しました。ゆきと若殿はいい領主だといううわさが広まるにつれ、村人たちも次第に、ゆきたちを歓迎してくれるようになりました。

その一方で、城内では妬みから、ゆきのよくない噂を流す者が出てきました。「あの女が城にいた頃は、あの女の悪口を言っている者は必ず何かしらの災難に遭っていたようだ。あの女が城を離れてから、そんな災難はぴたりと起こらなくなったらしい。あの女が災難を起こしたに違いない」「あの女は若いのに、どうしてあんなにお茶のお点前が達者なのだろう?噂では、彼女は狐と通じているらしい。彼女も狐で、狐の妖術いを使うのかも知れない。あるいは、物の怪の類いかも知れない。前代の大名が倒れた時、有名な茶道家でいらっしゃったご母堂様が城内で焼き死んだという話もあるよ」などと、とんでもないことを言い出す者まで現れました。

その頃、ゆきが手紙で来訪を依頼していた、婚礼の前に雇った女将が、城に到着しました。女将は門番にゆきから貰った手紙を見せ、部屋に通されると、家老がそこで待っていました。女将がゆきからの願いで、ここに来た旨を伝えると、家老は今ゆきはここにいないと言いました。女将は驚き、「ゆき様がお留守だということでしたら、私は何をしたらよいのでしょうか」と家老に訊きました。

家老は、「あなたのことは伺っております。ゆき様が村を訪問されている間に、あなたは、この城内のことをよく知っておいた方がいいでしょう。お部屋は、ゆき様の隣室をお使いください」と答えました。

それから女将はゆきの隣室に通され、自分の荷物の整理などをしてから、城内をあちこち見て回りました。数日間後、何人かの女中が井戸の周りに集まって噂話をするのを見かけるようになりました。初め、女将はいったい誰のことを話しているのかと不思議に思っていましたが、まだ彼女は城のことをよく知らなかったので、何も言いませんでした。しかし、徐々にその人たちが話しているのは、ゆきのことだと分かってきました。女将はそれを早速家老に報告しました。

家老は、「その件に関しては承知しました。しかし、人の口に戸は立てられません。噂をとめることはできないでしょう。だからといってそのまま放置しておくわけにもいきません。ゆき様の噂にはいつも注意を払っていてくれませんか。ゆき様がお帰りになられたら、お伝えした方がいいでしょう」と言いました。

それから女将は、悪いうわさを聞くたびに、その詳細を日記に書きとめていきました。

第四十二章

危難の噂

ゆきたちが、山の近くまで辿り着いた時、鬼や天狗などが村を襲撃している、という妙な噂を耳にしました。家来の長は、早速それを若殿に報告しました。「殿、村に行くのは大変危険でございます。このまま城にお戻りになる方が得策だと思います。もしそのままお進みになるのであれば、女子衆は城にお帰しするべきかと存じます」

それを聞いた若殿は、困った顔をしながら、「私はもう城に戻るように命じたが、彼女達はそれを頑として聞き入れんのだ。それに、狐子は…」と、若殿が最後まで言葉を言い続える前に、「鬼なんて怖くないわ」と言う声が背中越しに聞こえてきました。若殿がその方を向くと、そこにはいたずらっ子のような笑みを浮かべた狐子が立っていました。「鬼なんて、力だけで、頭は空っぽですもの」と、くすくすと笑いながら狐子が言うと、若殿は、「確かに、狐殿や狐子にとっては、鬼などとるにたらないものなのかもしれないな。鬼が我らの城を襲撃した時、狐子のお父上があそこにおられなかったら、私も家来も何もできなかったに違いない…狐子、とにかく、ゆきに城に戻るように説得してくれないか」と若殿は狐子に頼みました。

すると狐子は、きっぱりと「それはもう無駄です。命令される前は、城へ戻る気もないわけではなかったようだけど、命令されてからは、逆に城に戻らないと決意してしまったようです。あの子は頑固な所があるから。私はあの子の味方ですわ。…かえって、鬼などがいた方が、このつまらない旅も賑やかになっていいでしょうしね」と答えると、狐子は踵を返し、ゆきの方へ向かって歩き出しました。

若殿は家来に、「皆の者、怪しいものの気配に抜かりなきよう心得て欲しい。不意はつかれたくないからな」と命じてから、「つまらない旅の方がいいのだが」と呟きました。

第四十三章

鬼との遭遇

少しして、ゆき達が森を通り抜ける途中、偵察から戻ってきた家来が告げました。「殿、一町ほど先で、倒れた巨木が道をふさいでおります。先へ進むことは不可能と思われます」

若殿は家来に尋ねました。「他に通れる道はないのか?」

「あの村は狭い谷の奥にあるので、他に道はございません」と家来は答えました。

「そうか…」と若殿は呟き、ゆきの方へ向きました。そして、「もう城へ戻ろう」と若殿はゆきを促しました。

ゆきはきっとした顔つきで首を振り、「私はそれぞれの村を訪ねたいと申しました。安全で行きやすい村だけを選んで訪ねたいと申した覚えはございません。すべての村を訪ね終えてから、戻るつもりです」と、若殿の目をじっと見つめながら答えました。

若殿はゆきの目を見つめました。ゆきの瞳は真剣そのものでした。若殿は溜め息をつきながら、「仕方ない。斧を持っていき、木を取り除いて、なんとか道を通れるようにしなさい」と命じました。

それから、ゆき達は倒木のそばに集まり、三人の家来が、斧で木を切ろうとしました。ところが、斧が木に当たった途端、その木は激しく動き始め、怒号が辺りに響き渡りました。「俺様の昼寝を邪魔するのはどこのどいつだ?」木だと思っていたものは、なんと鬼の足だったのです!

鬼はゆっくりと立ち上がりました。ゆき達の馬は、鬼の気迫に押され、興奮し暴れ出しました。ゆきが宥めるために撫でながら声をかけようとした、まさにその時です。普段は大人しいが今は興奮した牝馬が前足で地面を高く蹴り上げ、必死にしがみつくゆきを一気に地面に叩きつけたのです。あたりはひどい混乱状態に陥ってしまいました。

鬼は、「俺様は、弟に会うためにここに来たのに、あいつの岩屋には誰もいやしなかった。この辺りの人間が、俺様が着いてあいつらを食う前に、すでに弟を殺してしまったに違いない。お前ら、何か知っていることがあるか?」と言いました。その声はまるで雷鳴のように、辺り一面に轟きました。

すると「出たわね、この木偶の坊、私の父がその鬼を退治させたのよ」と鬼の低い声とは真逆に、鐘のような弾む声が聞こえました。その声の主は狐子でした。狐子は、石の上に座りながら「兄弟そろって間抜け面の見本市でもやるつもりだったのかしら。戦うだけ無駄ね」狐子はドロンと自分の姿に戻り、石に座ったまま、のんびりと毛づくろいを始めました。

鬼はにやりとし、「お前のようなちびの女狐が俺様の相手になるはずもない」と言いました。狐子は何の反応もせず、今度はの尻尾の毛づくろいをし始めました。「尻尾が二本だろうが、百本だろうが、俺様には関係ない。叩きつぶしてやる」と言うと、鬼は松の木を引き抜き、それをまるで棍棒のように操り、狐子に向けて振り下ろしました。鬼が木を振り上げると、そこには狐子は影も形もありませんでした。頭がよくない鬼は、釘を打つように狐子のことを押しつぶしたつもりで、「軽いもんだわい」と満足な声で言うと、「あらこっちよ、のろまちゃん。その松の木を枕に、お昼寝するところだったわ」と笑う声が後ろから聞こえました。狐子は少し離れた所に立っていました。次の瞬間、鬼に向かって駆けてきたかと思うと、狐子は鬼の踵を噛んで、また遠ざかりました。

「畜生!止めろ!うっとうしい女狐め、そこを動くな!」と、鬼は松の木を振り回しました。

狐子はそんな風にして、徐々に鬼をゆき達のいる場所から遠ざけていきました。

そのおかげで、家来たちは馬を捕まえた後、少し落ち着くことができました。若殿はゆきの目を覚まそうとしました。「ゆき!起きなさい!逃げるんだ!」

ゆきは目を開けました。「あの、何があったの?頭が痛い…」と言うと、ゆきは目を丸くして続けました。「鬼だったの?どこ?」と、慎重に辺りを見回し、鬼が少しずつ遠ざかっていることに気づきました。「誰かが鬼に追われているのですか」

若殿は、「狐子だよ。狐子が我らから鬼を遠ざけている。今のうちだ、さあ逃げよう!」と言いました。

ゆきは、「それが侍のお言葉でしょうか。女子に戦わせて、ご自分はお逃げになるとは。それに、あの鬼を止めなければ、これからまた何人の農民が殺されてしまうことか。侍のつとめは国を守ることではございませんか。農民は国の生きた血です。農民を失えば、国が滅んでしまうことでしょう」

「あそこを見て!狐子が噛んだ踵のところに、狐火が憑いています。あそこを深く切れば鬼は必ずひっくり返るでしょう!真の侍なら出来るはずです」とゆきは言いました。

「そうか!見えるぞ!よし、やってみる」と、若殿は刀を抜こうとしましたが、「殿、お待ちください」と言う声が聞こえました。家来がゆき達に近づいてきました。

「お考え直しください。農民は国の生きた血ではありますが、殿は国の御心でございます。お世継ぎがいらっしゃらない殿に、万が一のことでもございますれば…」

「我ら家来の最も大切なつとめは殿を守ることでございます。拙者の父は、この刀と共にゆきさまのお父上にお仕え致しておりました。しかし、刀を父から譲り受けた拙者は、お父上を倒した大名に仕えることとなりました。これは拙者にとって真に不名誉なことでありました。ですから、そのお役目は私めにご命じください。たとえ我が命と引き換えてでも、あの鬼を倒すことで汚名を返上致したいのです。殿にはとどめの一太刀をお願い致します」

若殿がゆっくりとうなずくと、家来は鬼の方へ向きました。木の間を走りぬけ、鬼の様子を窺いながら少し待ち、また次の木の陰へ向かって走りました。若殿も同じように、家来の後ろを少し離れてついて行きました。そしてようやく、家来は鬼の近くまでたどり着きました。もう一度、鬼がまだ気づいていないのを確かめてから、鬼の踵のそばに駆け寄り、力いっぱい刀を振り下ろしました。鬼は激高しながら切られた足を持ち上げようとしましたが、松の木を棍棒のように振り回していたので、重心を失い、ついには地面にひっくり返ってしまいました。

鬼が倒れたのを見て、すぐに若殿は鬼の頭のところに駆け寄り、刀を抜き、一振りで鬼の首を切り落としました。一段落した後で、足に斬りつけた家来が立っていた辺りを見ましたが、そこには誰もいませんでした。「おい、どこだ?大丈夫か?」と呼びかけると、家来が答えました。「こちらにおりますが、身動きできないのでございます。鬼の足が拙者の腕に乗っているのです」

家来たちは彼を鬼の足の下から助け出しました。一方、狐子は人間の姿に化け、若殿のところに戻ってきました。「とっても楽しかったわ。今度はどんな鬼に会うかしら」と言いました。

「やれやれ」と若殿は苦笑いしながら言いました。

第四十四章

破壊された村

鬼を退治した後で、ゆきたちは谷の奥の村に向けて旅を続けました。村に着いた時、あちこちに壊れた家が見えましたが、人は誰もいませんでした。

家来の一人が、ある壊れかけた家に走っていき、「父さん!母さん!どこにいるのですか!大丈夫ですか?」と叫びました。

すると「おじさん!」と言う声がして、崩れかけた家の中から、七、八歳の女の子がその家来のところに走ってきました。女の子は興奮した様子で「鬼が出たの!お家がめちゃめちゃにされて!お母さんとお父さんが食べられちゃって!怖かったからずっと穴に隠れてたの!」と、泣き出しました。

家来は、「落ち着いて、落ち着いて。鬼はもう死んだよ。お腹がぺこぺこだろう?」と言い、女の子の頭を優しく撫でました。女の子は泣きじゃくりながら、こくりと頷きました。家来は微笑みながら「後でお腹いっぱいご飯を食べようね。兄弟達と一緒に」と言いました。

女の子は「弟も妹もまだ穴にいる」と、泣きなから指差しました。「おじいさんや、おばあさんは?」と家来が尋ねると、「知らない!」と悲しそうに答えました。

「じゃあ、兄弟を集めて、何か食べよう」と家来は言いました。

それから家来は、穴の中に隠れていた子供達を、ゆき達のところに連れて行き、持っていた糒などを与えました。子供達はよほどお腹が空いていたのでしょう。夢中になって食べていました。そんな子供達を横目に、若殿は、生き残った者を探すために、村の四方に家来を送りました。

しばらくして、家来達が戻り、二、三十人の子供達と、ごく僅かの大人を連れて戻ってきました。家来は「殿、どこも隈なく捜索致しましたが、この者たちしかいないようでございます」と報告しました。

若殿は、「五十世帯の中から生き残った者は、たったのこれだけか…?被害は甚大だぞ」と呟きました。そして、はじめに子供を見つけた家来の方へくるりと振り向き、「お前はこの村にどういう縁があるのだ?」と訊ねました。

家来は、「拙者の家内はこの村から参りました。家内の父はこの村の長で、この子たちは家内の兄の子供なのでございます」と答えました。

ずっと黙っていたゆきが口を開き、若殿に「この村人達を、いかがなさるおつもりですか」と訊ねました。

若殿は、「こんな何もないところに住んでいても仕方がないであろう。村人は、私が他の村か城下町に連れて行こう」と答えました。

ゆきは、「何も残っていないとおっしゃるのですか。あちらをご覧ください!あれでも何もないとおっしゃいますか」と、田んぼ一面に実った稲穂を指差しました。「あれは国の宝ではございませんか。あの田をすぐにでも刈り取らないと、この村からの米の収穫は無くなってしまいます。つまり、この村からの税収も無くなるということです」

「それよりも、この人たちが他の村に連れて行かれたら、一体どのような生活を送ることになるとお思いですか。よそ者として、とても貧しく暮らすことになるに違いないでしょう。私はそのように育ちましたから、よく分かるのです。それでもまだ、他の村などに連れて行くおつもりですか」とゆきは言いました。

「ふむ。それでは何か良い考えでもあるのか?」と若殿は聞きました。

ゆきは、「はい。仮住まいや食料の確保が必要です。まず、壊された家の中から一、二軒を建て直し、倒された米倉のお米が腐ってしまわないように、運び込んで保管しましょう。それに、隣の村や城に使者を送って、彼らの親戚や手伝ってくれる人を呼び集めましょう。家を再建した後に収穫を始め、それから改めて米倉を作ればいいかと存じます」と答えました。

若殿は言いました、「分かった。よし、それではそなたは城へ帰りなさい」

「何をおっしゃいますか。あれらの田んぼの刈り入れが終わるまで、ここに残るつもりです。この侍たちの中で、米の収穫の経験がある者は何人いますか。私はあの子くらいの年頃から、毎年収穫を手伝っていたのです。ですから、今年も収穫を手伝うつもりです」と、ゆきは七、八歳の女の子を指差しました。

若殿は、「なんと。ここに残るつもりならば、ゆきは身重の身ゆえ、あの子たちの子守りくらいにしておいた方がいいだろう」と言いました。

ゆきは、「私より狐子の方が、子守りが上手です。あちらをご覧ください!狐子のお話や面白い顔のおかげで、泣き顔のあの子たちが笑顔になりました。それに、毎年身重の女が稲を刈り取るのを見てきました。私が田んぼで働く方が役に立つでしょう」と答えました。

若殿はため息をつきました。「賛成するしかないだろう」と、家来の中から使者を選びました。

第四十五章

広がる噂

ゆきたちが家を建て直したり、稲を刈り入れたりしているうちに、だんだん他の村や城下町から手を貸す者たちが現れ始めました。一週間ほどで米の収穫が終わり、ゆきと若殿は村の今後を話し合いました。そして、誰がどの田んぼを受け継ぐか、誰がどの孤児を育てるか、といったこと一つ一つを決めました。

若殿一行についての話が、国中に伝わりました。「殿が、またもや鬼の首を切り落とした。まさに豪傑と呼ぶに相応しいお方だ!」とか「殿とゆきさまが、鬼に襲われた村を再興なされた。真の名君だ」などと、農民たちは口々に褒め称えました。

一方、城の中では、ゆきの行動について「彼女は田んぼで働いているそうだ。百姓の心が染み付いているのだろう。全く我等が殿には似つかわしくない妻だ」とか「なんと、殿を泥まみれで働かせたそうだ。魔術を使う物の怪に違いない」とか「狐の姿に化けて、鬼と戦ったそうだよ。かねてからの噂通り、彼女は化け物なの」などと、悪い噂が広まっていました。 女将は日記にいろいろな噂を黙々と記録し続けました。

そしてついに、ゆきたちはその村の復旧を終え、残った村もすべて訪ね、城へ帰ってきました。

第四十六章

城への帰還

ゆき達が城に向かう途中、狐に会いました。ゆきは「狐どの、こんにちは」と言いました。

狐は「こんにちは、ゆきどの。申し訳ありませんが、狐子と一緒に参らねばなりません。狐の評議がありますので」と、ぺこりと頭を下げました。

ゆきは、「狐の評議ですか。狐子ちゃんに何か問題でも起こったのですか」と、心配そうに訊ねました。

狐子は、「別に、心配しないで。きっと鬼を退治した時のことね。すぐに帰って来られると思うわ。それでは行ってきます」と言った後、狐の姿に戻り、父親と一緒に歩き出したかと思うと、まるで風のような速さで消えてしまいました。

しばらくするとゆきたちは城下町に着きました。老若男女、町中の人々が道端に並んで待っていました。その中を通って城へ向かう間、大きな喝采が止むことはありませんでした。打って変わって、城の中庭はとても静かでした。ゆきは城の窓という窓から悪意に満ちた目で眺められているように感じました。

そんな時、ゆきはふと見覚えのある人が、自分に向かって歩いて来ていることに気づきました。ゆきは嬉しさのあまり、大きな声で「女将さん!来てくれたのですね!やっと願いが叶いました!」と言い、泣き出してしまいました。

女将は、「ゆきさま、お待ちしておりました。どうか落ち着いてくださいませ。身重のお体ながら国のあちらこちらにお出かけなさって、さぞやお疲れでございましょう。馬からお降りになって、お部屋にお戻りください。湯殿の支度を整えてございます」と、ゆきが馬から降りるのを手伝い、部屋へ連れて行きました。

第四十七章

女将との会話

次の日、ゆきが朝ご飯を食べた後、女将は、ゆきの前に座り、「昨日は、気が動転なさっておられたようですね。何かお困りでしょうか。私に出来ることはございませんか」と、優しく訊ねました。

ゆきは、「元々女将さんの下で働いていたのですから、二人だけの時は、気を使わなくても結構ですよ」と言い、下を向いて溜め息をつきました。女将がゆきの言葉に頷きながらも「ご遠慮なさらず、何でもおっしゃってください」と言うと、ゆきは窓の外を指差し、「外に出ている間は自由を感じていました。でも城内にいる時は、まるで籠の中の鳥になった気がします。何かをしようとすると、すぐに反感を買ってしまいますし…。狐子ちゃんがここにいた時は、だんだんよくなっている感じがしていたのですが、狐子ちゃんは狐どのと一緒に遠くへ行ってしまいました。私が城に帰ってきた時、笑顔で迎えてくれた人は誰もいませんでした」と、悲しそうに言いました。

女将が「その狐子さんという方は、どんな人なのですか」と尋ねると、ゆきは含み笑いをしました。「実を言うと、狐子ちゃんは人ではないんです。狐どのの娘なんです。人間のことにすごく興味があるから、常に人間の姿をしていますけどね。とても明るい女の子です。村を訪ねる途中で鬼と遭遇したのですが、狐子ちゃんは狐の姿に戻って、たった一人で勇敢に鬼と戦ったのですよ」

女将は、「狐子さんが狐の姿で鬼と戦ったのですね。噂では、ゆき様が狐に化けて鬼を退治なさったと…」と言った後、自分の部屋に行き、日記を持って戻ってきました。「私が城で働き始めてから、ゆき様についてのお噂を耳にするたびに、それらをこの日記に書いておきました。どうぞお読みください」

それからゆきはその日記に書かれた噂を読み始めました。順に目を通しながら、「この意味がさっぱり分かりません」とか、「この部分は狐子ちゃんのことです」とか、「これは私のしたことですが、事実と全く違います」などと女将に言いました。

第四十八章

家老の助言

その日の評議で家老は、「あの時子供を見つけた家来を、村の長にお取立てになったのはゆき様のお考えでございますか」と尋ねました。

若殿ははっきりと答えました。「そうだ。ゆきの考えだ」

それを聞いた家老は、「しかし、その者の妻が、村には戻りたくないと申しているようでございます。ゆき様のお考えだということでしたら、一度、ゆき様がその者にお会いになってはいかがでしょうか」と、ゆきに言いました。

ゆきは、「私がですか?でも、誰も私のことをよくは思っていないようです」と、俯き加減で言いました。

家老は、「ゆき様はこの城にお越しになられて以来、城の者達とはほとんど触れ合う機会がございませんでした。ゆき様のことをあまりよく存じ上げておらぬゆえ、悪い噂を立てているのではないでしょうか。もし、その者達がゆき様のお人柄に触れさえすれば、そのような噂はたちまち消えるはずでございます」と、優しく助言しました。

ゆきはふぅっと小さく溜め息をつきました。「では、その者と話をしてみましょう。今晩、私の部屋に来るように伝えてください」

第四十九章

面会の準備

ゆきは家来の妻のことを考えながら自分の部屋に戻って来て、窓際に座わりました。女将が櫛でゆきの髪を撫で始めると、ゆきは女将に話を始めました。「女将さん。今晩、新しい村長の妻と会うことになりました。その人のことを、何かご存知ですか」

女将は髪を撫でながら、家来の妻のことを思い出そうとして、しばらく黙り込みました。やがて、「あぁ、そうそう、子供が二人おります。ゆき様のお怒りに触れたので、一家が遠い村に送られてしまうという噂が広がっているのでございます」と女将が言うと、ゆきは飛び上がり、女将の方を振り向きました。「私が怒っているですって?どうしてそんなことになっているのでしょうか」

女将は櫛で頬を軽く叩き、「ゆき様の悪い噂を広めたのはその者なのじゃないですか?ゆき様がそのことをご存じになり、お怒りなのだと思っているのでしょう」と答えました。

ゆきは溜め息をつきました。「そんな人と会って、私が話をしても、きちんと聞いてくれないのではないでしょうか」

女将は櫛をしまい、「まず、お話しをなさる前に、一服のお茶で、その者の気を落ち着かせてはいかがでしょう。それから、ゆっくりと問題についてお話しなさればよろしいかと存じます」と答えました。

ゆきは頷いて、「そうですね。それではお茶の席に相応しい着物を選んでいただけますか。その間に私は茶道具の支度をします」と、準備を始めました。

第五十章

家来の妻

夜になり、その家来の妻がゆきの部屋に入ってきました。彼女はそわそわしていました。「ゆき様、私について何をお聞きであっても、それは出鱈目なことでございます。信じないでください」と言いました。

ゆきは、「ちょうど今お湯が沸きました。お茶を飲んだ後でゆっくり話しましょう」と、お茶を点て始めました。

お茶を飲んだ後で、ゆきは、「あの村はあなたの故郷なのに、戻りたくないそうですね。どうしてなの?」と聞きました。

家来の妻は、「あの村で鬼の襲撃に怯えながら暮らしていました。それは、私にはとても辛いことでした。結婚した後は村に絶対戻るまいと心に決めたのです。私がそう思っていることはこの城の人達は皆知っていることでございますので、ゆき様も当然ご存知かと思っておりましたが…。今回私どもを村に戻すというのは、私がゆき様の悪い噂を流したという話をお聞きなっての処罰でございますか」と聞きました。

ゆきは、「あなたがそのように決心していたとは知りませんでした。私はただあなたのお兄さんの子供達のことだけを考えていました。あの子達しかおじいさんの田畑を相続する者がいないのです。でも、あの子達はまだ幼すぎるから、十分に成長するまで、誰かが面倒を見てやらねばなりません。他に、世話をしてくれる身寄りがありますか」と尋ねました。

家来の妻ははっと息をのみました。「兄の子供達が孤児になっていたのですか。知りませんでした。彼らをここに呼び寄せてもよろしいでしょうか。ここでなら、私が育てることができます」

ゆきは首を振りました。「ここだと、田畑のことを全く知らずに育つでしょうね。皆が城で暮らしたら、いったい誰がおじいさんから受け継いだ田畑を耕すのですか」

家来の妻は震えました。「でも、鬼が怖いのです。また鬼が襲って来たら、どうしたらいいのでしょうか」

ゆきは、「殿は、すでに二匹の鬼の首を切り落としています。また鬼が来ても、殿はすぐに兵を率いて駆けつけ、前のように首を切り落として下さるに違いありません。今回の旅の間に、それぞれの村に早く行き来できるように、殿は道を修繕する手筈を整えました。心配しないでください」と、もう一度お茶を点てました。そうして、ようやく家来の妻は夫と一緒にその村に住むことにしぶしぶ同意しました。

第五十一章

茶席の予定

家来の妻がゆきの部屋を出てから、女将が入ってきました。「ゆき様、お茶席はいかがでしたか」

ゆきは溜息をつきました。「はじめは渋っていましたが、ようやく承知してくれました。家族と一緒にあの村に行って、お兄さんの忘れ形見の子どもたちを育てることに同意してくれました」そしてまた溜息をつきました。「こういう話をするのは苦手です」

女将は茶道具を片付け始めました。「国を治めるとなれば、そのようなことは避けては通れないでしょう。それがまさに政というものなのですね」

ゆきは、「そうですね」と、苦笑いをしました。「その者が城を出れば、例の悪い噂も無くなると思いますか」

女将は首を軽く横に振りました。「そうはならないでしょうね。噂話の好きな者が多いですから。でも、城中の者がゆき様のことをよく分かってくれれば、悪口を広めるようなことはしなくなるでしょうね」

ゆきは、「どのようにすれば、彼女たちに私のことを分かってもらえると思いますか」と尋ねました。

女将は、「一人一人をお呼びになり、お茶を点ててもてなすのが一番かと思われます。でも、誰からお呼びになるべきかは難しい問題ですね」と、ゆきの着替えを手伝いながら言いました。

ゆきはくすくすと笑い出しました。「難しくなどないと思いますよ。今晩もう、その最初のお客様をもてなしたのですから」

女将も笑いました。「そうですね。さて、問題は、次のお客を誰にするかということになりますね。はじめのお客はお茶席の後でお城から追放されたようにも見えかねません。そうなると、城内の者はお茶席を怖がり始めるかも知れません」

「そうですね」と答えながら、ゆきがふと棚に目をやると、その上にある二冊の本が目に留まりました。そしてその二つの本が、どちらも同じ内容だということに気付きました。「私がここを離れている間に、庄屋さんの奥さんから借りた本の写本が出来上がっていたようですね。それでは、彼女が次のお客というのはどうですか」

女将は、「良い考えだと存じます」と答え、二人は庄屋の妻に招待状を書いて送りました。

そういうわけで、数日後、庄屋の妻が城にやって来ました。茶会の席で、ゆきは借りていた本を返し、他の本を借りる約束をしました。

間もなく、庄屋の妻が楽しんだという話が城内に広まっていきました。それから、城内の女性のもとに一人また一人と招待状が届き始めました。初めは皆びくびくしながらゆきの部屋に行きましたが、呼ばれた者たちが楽しんだという噂がだんだん広まると、皆は招待状を心待ちにするようになっていきました。それぞれの茶席の前に、女将はその客に関する情報をゆきに教えておきました。そして、ゆきはその客の好きなことや嫌いなこと、家族のことなどをその席で話し合いました。こうして、ゆきについての悪い噂はだんだん消えていきました。

第五十二章

三本の尻尾

そのようにして数週間が過ぎました。ある秋空の日、ゆきは庭で日向ぼっこをしながら、座って本を読んでいました。ふと、誰かが落ち葉の上を歩く足音が聞こえました。辺りを見渡すと、見覚えのある赤毛の娘が見えました。

「狐子ちゃん!おかえり!」と、ゆきは重い体でゆっくりと立ち上がりました。

「ただいま!わあっ、ゆきちゃん、お腹がすっかり大きくなったわね。赤ちゃんが蹴るのがもう分かるの?」と狐子が聞くと、ゆきは「そうよ。さわってみて!」と、狐子の手を取って、自分のお腹に置きました。

「力強い蹴りね!いつ生まれるのかしら?」と狐子が尋ねると、ゆきは「春らしいの。多分、お花見のころね」と答えました。

「わあ!きっと桜のように華やかな子が産まれるわよ」と狐子が言うと、ゆきは「それはそうと狐子ちゃん、ここを離れてから、どうしてたの?心配しないでと言っていたけど、なかなか戻ってこなかったから、気になってたの。その後、変わりはないの?」と聞きました。

狐子は、「心配しないで大丈夫よ。鬼との争いのおかげで、尻尾をもう一本付けることを許してもらったの。見て!」と、狐の姿に戻り、背中の後ろに揺れる数本の尻尾を見せました。

ゆきは、「可愛い!」と、指差して数え始めました。「一、二、三…三本あるわ。ええと、前は二本だったかしら?狐子ちゃんはいつも人間の姿だったから覚えてないわ」

狐子は人間の姿に化け、「前は二本だったの。お父さんが得意気な顔をしてたわ」と笑った後、一転して憂鬱そうに溜息をつきました。「でも、もう尻尾が三本になったのだから、一族繁栄のために、すぐにでも結婚すべきだって、お父さんが言うのよ。それでひっきりなしに、つまんない男に私を紹介するの。本当にうんざりするわ。みんな人間のことなんかより私の尻尾をくんくん嗅ぐことにしか興味がないのよ」と言って、顔をしかめました。

「それは残念ね。まだお嫁に行きたくないの?」

「結婚はしたいけど、そんな男たちとはちょっとね…」

「どんな人がいいの?」

狐子は両手を胸に置いて、顔を上げ、微笑んでから、長く息をつきました。そして「家老」とだけ言いました。

「えぇ?何?どういうこと?」

「家老のような人がいいの。優しいし、頭がいいし、世の中のことをよく知っているしね」

「でも、年が違いすぎない?」

「構わないわ。昔から彼のことが好きなの。それに、狐の一生は人間のと違うのよ。私は何歳だと思う?」

「ええと。十五、六歳かしら?」

狐子は二、三歳の女の子の姿に化けました。「今、何歳ぐらいに見える?」と言ってから、次は八十代の老女の姿に化けました。「今度は?」と言って、元の姿に戻りました。「化けている姿は自分の年齢と関係ないのよ。ただ、性格と合わせた姿の方が気持ちいいから、いつも娘の格好をしているの。狐としてはまだまだ若輩者だけど、実は家老の年とあまり変わらないのよ」

ゆきは額に手を当てて考え込んでしまいました。「そうなのね。でもちょっと待って。どういうことなのかしら。混乱して、頭が痛くなってきたわ。いつから家老のことを好きだったの?どうやって知り合ったの?」

狐子は、「長い話よ。陽がもうすぐ沈むから、部屋に行きましょうよ」と、ゆきの手を取って、城の門へ向かって歩き始めました。

第五十三章

狐子の話

二人がゆきの部屋に着くと、女将が洗濯ものを行李にしまっているところでした。ゆきは身重の身体で狐子に足早に手を引かれてきたので息を切らしていました。ゆきは乱れた息を整えてから、「女将さん、狐子ちゃんが帰ってきたんですよ。狐子ちゃん、こちらは私が以前働いていた温泉の女将さんなんです」とお互いを紹介しました。

狐子と女将が挨拶を交わすのを待って、ゆきは、「女将さん、狐子ちゃんが戻ってきたので、狐子ちゃんと一緒に夕食を楽しむつもりなんです。台所に食事の用意を頼んでから、そのように旦那様に伝えていただけますか?それから、今晩予定していたお客に明日にしてもらうよう伝えていただけませんか?」と頼みました。

女将が去ってから、二人は縁側に腰を降ろしました。「どうやって家老と知り合いになったのかを教えてくれない?」

「うん。何から話したらいいかしら。ああ、そうね。昔々、ある雌狐が侍と恋に落ちました。やがて、二人は結婚しましたが、二人の生活は長く続きませんでした。殿様の命令で、侍はすぐに戦に行ってしまったのです。二、三ヶ月が過ぎた頃、戦は終わり、侍達は城へ戻ってきましたが、雌狐はその中に夫の姿を見つけることはできませんでした。雌狐が夫のことを尋ねてみると、討ち死にしたと伝えられました」

「雌狐は悲しみに打ちひしがれて、夫のいない村で一人で暮らすよりも、できるだけ早く自分の家族のところに戻りたいと思いました。でも、すぐに戻る訳にはいきませんでした。雌狐のお腹の中には新しい命が宿っていたのです。狐の中で人間の子を育てるのは難しいことが分かっていたので、戻って産むことができなかったのです。それで、雌狐は侍の家族のところに移り住みました」

ゆきは話を遮りました。「どうして戻ることができなかったの?狐と人間の間の子供ってどういう風なの?」

狐子は答えました。「見た目は人間の姿になることが多いの。人間の中で育てば、たいてい神童だということになるわね。でも狐の中だと成長して大人になっても子狐にさえ勝てない、弱い狐になってしまうのよ」

ゆきが「へぇ。そういうものなの」と答えると同時に、廊下から「よいか」という若殿の声がしました。

二人が「どうぞお入りください」と言うと、若殿は襖を開け、部屋の中に入って来て、「狐子、おかえり」と言いました。

ゆきが、「狐子ちゃんはうちの家老と昔からの知り合いだったそうなのよ。今、出会った頃の話をしてもらっているんです」と説明すると、「私も聞いていいかな」と、返事を待たずにゆきの隣に腰を降ろしました。

狐子は続けました。「とにかく、子供を授かった雌狐は、亡くなった夫の家族の家に移り住んだのです。来る日も来る日も、雌狐は悲しみに打ちひしがれたままでしたが、お腹は順調にどんどん大きくなり続けました。そしてついに、雌狐は赤ちゃんを産みました。しかし、雌狐は、夫のことを諦めた時から、産まれた子を決して見るまいと、強く心に決めていたのでした。いくら義母が頼んでも、きっぱりと断りました。一目でも見てしまうと、離れ辛くなると思ったのです」

「その夜、雌狐は家を出て近くの川に飛び込み、自分の家族のところに帰りました。しかし、自分では何もできないものの、気が気ではなかったので、弟に産まれた子供を見守ってくれるようにと頼んだのです。そして、二度と人間の土地に戻ることなく、実は今でも自分の住処に独りで暮らしています。遠く離れていても、雌狐は一時も忘れることなく子供のことを思い続けているのです」

「雌狐がいなくなった翌朝、侍の両親は嫁の不在に気付き、村中を捜し回りました。でも、どこにも見つからなかったので、とうとう最後は川で溺れ死んだのだろうと諦めたのです」

「そんな騒ぎの中、侍の母親は数日前に近所の農家に赤ん坊を亡くした女がいたことを思い出し、乳母として迎え入れました」

ゆきが声を上げて、「その子が家老なの?」と訊くと、「違うのよ。その子は女の子だったの」と狐子は答えました。

「雌狐の娘はすくすくと育ち、年が経つにつれ、綺麗で賢くなっていきました。また、娘は茶道にも長けていました。縁あって、娘は住んでいる国の若殿の目を引き、すぐに二人は結婚しました。雌狐の弟は姪をずっと見守り続けていました。普段は遠くから見守っていましたが、時々人間の姿に化け、姪のところを訪ねることもありました」

「間もなく、雌狐の娘に息子が産まれました。同じ頃、雌狐の弟にも娘が産まれたのです」

そこまで話すと、狐子は襖の方にふっと目を向けて「ああ、夕食の準備が整ったようね。また後で続けるわ、先にいただきましょう!」と言い、ゆきと若殿は後ろを振り返りました。二人が狐子の話に聞き入っている間に、女将が女中に命じて三人分のお膳を用意させていたのです。いつの間にか暗くなっていたので、女将は蝋燭に火をつけました。

第五十四章

話の続き

箸を置くか置かぬかのうちにゆきと若殿は話を続けてほしいと頼みました。

ゆきが、「その時の男の子が、今の家老なの?」と言うと、若殿が「いや違うだろう。うちの家老はその殿の家系ではないはずだよ。だけど、その弟狐の親子のことは、私達も知ってると思うけれどね」と狐子に言いました。

狐子は顔を真っ赤にしながら「話は、どこまでしましたっけ?ああ、思い出した」と話を続けました。

「月日が経ち、雌狐の孫は強くて勇敢な若者に成長しました。城内の同じ年頃の者は皆雌狐の孫に忠誠を尽くしましたし、隣の国の若殿も雌狐の孫と盟友となることを望みました」

「弟狐の娘も成長していました。従姉が人間と暮らしていたということもあり、人間に強く興味を持ようになりました。人間の姿に化けられるようになってからは、父親と一緒に従姉を訪ねることもありました。その内に、雌狐の孫の仲間達と知り合うようになりました」

「その頃、弟狐の娘は従姉を訪ねては、狐らしくいたずらして楽しんでいました。武術より本の方が好きだという一人の武家の少年が本を読みながら廊下を弟狐の娘の方に歩いて来た時のことでした。弟狐の娘がまじないで少年が歩く少し先の床の板を持ち上げたので、少年は躓いて転んでしまいました。弟狐の娘はくすくすと笑いましたが、少年の顔を見ると、笑いを噛み殺して、少年が立ち上がるのを手伝いました。その時、少しだけ少年と言葉を交わしましたが、それがきっかけで従姉を訪問するたびに、少年にも会うようになり、だんだん仲良くなっていきました。やがて、少年は城主の家来となりました」

「雌狐の孫は成人するとすぐ、政治的駆け引きにより隣国の姫と政略結婚しました。しばらくすると、二人の間に娘が産まれましたが、母親の方は産後の肥立ちが悪く、すぐに亡くなってしまいました」

「その頃から、次第に不穏な空気が漂う時代になってきました。それぞれの国は将軍の命令を無視して、隣国と戦い始めました。全国いたるところで戦が起こりました。そうして戦国の世が始まったのです」

「狐の里も戦に巻き込まれました。力を持つ狐達は恐れられ、それ故に攻撃の対象に選ばれたのです。狐の一族は様々な妖怪に攻撃されました。そういうわけで数ヶ月の間、弟狐は姪である雌狐の娘を見守ることができなくなりましたが、娘が従姉と一緒に住みたいと頼んだので、望み通りにさせることにしました」

「弟狐の娘が城に着いた時、城内は混乱の坩堝と化していました。殿様も若殿も戦で亡くなってしまい、若殿の息子である雌狐の孫が侍達を再び集め、城に退却したばかりでした。敵の大将は鬼と組んでいるという噂が城内のあちこちに広まっていました。一方、城主になった雌狐の孫は次に攻められることに対して、城を守るための準備を進めていました。他の国に援軍を送ってくれるように使者を送りましたが、隣国の亡くなった妻の国からさえも、良い返答は得られませんでした」

「弟狐の娘は手伝いたかったのですが、その時は尻尾が一本しかなかったので、まだ強い術を使うことができませんでした」

「しばらくすると、敵軍が城を取り囲み始め、籠城が始まりました」

「時々、敵陣営の中に巨大な鬼が見えました。鬼が国のあちこちを荒らし回っているという噂が城内に広まっていました」

「その段になってやっと近隣諸国の雌狐の孫の盟友達が、少数の侍と共に密かに城にやってきました。雌狐の孫達は喜びましたが、盟友達は、「援軍に来てはみたものの、我らは皆若く、どのくらいの技量を持っているとも知れない。それに我々の国も危険にさらされており、他国の援軍を受けるあてもない。我らはそんな中、父上達の反対を押し切って参上しているのです」と苦しい胸の内を話しました」

「籠城の数日間で、弟狐の娘は城の人たちと親しくなりました。その中には今や城主になった雌狐の孫の腹心の家来として、立派に成長したかつて幼馴染の少年の姿がありました。弟狐の娘はその男の人が好きになりました」

「日に日に、城の兵糧は減っていきました。城の中では乏しい食料をみんなで分け合ってなんとか飢えをしのいでいましたが、結局、皆が弱ってきた頃に敵の総攻撃に遭い、落城してしまいました。」

ゆきは口を挟みました。「どんな風に総攻撃されたの?」

狐子はしばらく考え込んでから、「ある日、鬼の姿がまた敵陣営に見えました。敵の大将と相談していたようでした。そしてついに、鬼は敵軍と一緒に城を攻撃することを了解したようでした。間もなく、鬼が大きな岩を城郭に投げつけて、壊し始めました。同時に、敵兵が一斉に攻撃を仕掛けてきました」

「一方、城内では、殿は、家来達の士気を鼓舞しながら外堀を守らせていました。しかし、現実は、心中ではもはやこれまでと密かに覚悟を決めていたのです」

「殿が外堀の方へ向かう前に、弟狐の娘は声をかけました。『殿、失礼いたします。秘密の抜け穴がありました。ぜひ一緒にいらしてください』殿は、『私が行くことはできないが、母上と赤子と一緒に三人で逃げてくれ』と答えました。そこで弟狐の娘は深く頭を下げ、従姉である城主の母親を捜すために立ち去りました」

そこで若殿が口を挟みました。「弟狐の娘がそれほど丁寧に喋ることが出来るとは、ちょっと信じがたいな」と言って、狐子の顔を訳知り顔で見つめました。

狐子の顔はまた真っ赤になりました。ゆきは若殿の方に顔を向けました。「あなたは、どうしてそのような事を言うのです?狐子ちゃんが話しているのだから、狐子ちゃんの好きなように話しても構わないでしょう?」と、また狐子の方へ向きました。「それから、何が起こったの?」

狐子はまた続けました。「従姉を捜す途中で、弟狐の娘は秘かに心を寄せている殿の家来と出会いました。そこで、『殿の命令に従って殿の母上様と姫様と一緒に秘密の出口から逃げるために、お二人を捜しているのですが手を貸してくださいませんか』と頼みました。家来は、『そうしたいのだが、殿がまだここに残るおつもりなら自分だけ逃げるということはできない。出口までなら一緒に行けるが、そこから先は行ってあげられない』と答えました。弟狐の娘はがっかりしましたが、仕方のないことと納得しました。それから二人は一緒に殿の家族を捜しました。

「間もなく、従姉である殿の母の部屋に着きました。従姉は孫娘と一緒にそこにいました。『殿が私にお孫様と三人で逃げるようにおっしゃいました。お供致しますのでお急ぎください』と話しました」

「城主の母は、『息子がそう言うのなら従った方が良いでしょう。荷物をまとめるので少し待ってください』と答えました。城主の母は手荷物に自分にとって大切な本を二冊入れた後、孫娘を抱きました。そして、弟狐の娘に先導されて城の地下へ降りて行きました」

「辿り着いた所には地下道の入口がありました。そこまで同行してきた殿の家来は、『私は戻らなければなりません。もうお目にかかることはできないと思いますが、どうぞお達者で』と言いました。弟狐の娘は、『もう会えないだろうなんて言わないでください。また会えると信じています』と答えました」

「それから彼は戦に戻り、残った三人は地下道に入って行きました」

「この地下道は実は弟狐の娘が見つけたものではなく、彼女が作ったものでした。籠城が始まった時から、毎夜秘密のうちに少しずつ掘り進めていたのです。前日の夜に、努力の甲斐あって外に通じたのでした」

「穴の中をしばらく歩くと、弟狐の娘たちは地下道の出口に着きました。辺りを見回すと、そこは城を囲む敵陣営の背後でした。城の方を見ると、分厚い黒煙がもうもうと上がっていました。城はすでに落ちていたのです」

「『息子よ、なぜこんな若さで死んでしまうの?親が子供より長生きすることになるなんて』と城主の母は泣き崩れました」

「弟狐の娘は従姉の肩を抱き支えて、言いました。『殿が討ち死になさったとは限りませんよ。今はそれよりお孫様のことを考えてください』と」

「雌狐の娘は涙を流しながらも孫娘を抱きしめて立ち上がりました。『ここにはもう私の住める場所はありません。故郷に戻りたい』と言って城に背を向け、歩き始めました。弟狐の娘はその後ろに付いて歩き、まじないを使って二人の足跡を消し去りました」

「雌狐の娘の故郷に着いてみると、そこには壊された家しかありませんでした。鬼が村を襲撃したのだということは誰の目にも明らかでした。『ここにも留まることができないようね。私のかけがえのない思い出の場所は全部破壊されてしまいました。一体どこへ行けばいいのかしら』と嘆きながら従姉はうなだれました。弟狐の娘は、『隣の国にある小さな村を知っています。そこなら密かに暮らすことができるでしょう。いかがでしょうか』と言いました。雌狐の娘が頷いたので三人はその村の方へ向かって歩きました」

「その村は狐の里にごく近い所にありました。弟狐の娘は、従姉があそこにいるなら、父上は、姪を見守るという約束を果たせるだろうと思いました。それで、近くの村に従姉を連れて来たのです」

「従姉がその村に住まいを見つけたのを確かめた後で、弟狐の娘は自分の住処に帰って、父に籠城や従姉との旅のことを伝えました。それから弟狐の娘は、好きなあの人が籠城で生き残ったかどうか確認するために、あちこちで好きなその者のことを尋ね回りました。殿が鬼に殺された数ヶ月後に、ようやくその家来が、数人の侍達や援軍に来ていた隣国の若殿達と共に地下道で城から逃げたということを知りました。でもそれ以上の消息は結局つかめませんでした。その後、弟狐の娘は人間のことを良く知りたいと思って、各地を旅するようになりました」

「一方、弟狐は姪を見守り続けました。雌狐の娘は孫娘を育て、読書や茶道を教えました。その村で暮らして十数年という長い年月のうちに、弟狐が見守っていた姪も老婆となり、やがて静かに人生の幕を閉じました。少し経ったある日、身寄りのなくなった孫娘はその村を出ました。そしてしばらくして弟狐に会いました」

ゆきは声を出しました。「え?もしかしてその子が私なの?それで、狐子ちゃんが弟狐の娘なの?」狐子がうなずいた後で、「狐子ちゃんや狐どのは私の血縁者だったの?どうしてもっと早くに教えてくれなかったの?」と言いました。

狐子はこう答えました。「伯母の願いだったの。ここを離れている間、伯母と私はよく話し合ったのよ。私がゆきちゃんと仲良くなったから、伯母はやっとこの話をすることを許してくれたの」

ゆきはまた訊きました。「好きだった人というのが家老なのね!今もまだ想っているのなら、数週間私達と一緒に国中を旅して回ったのはどうしてなの?」

狐子は溜息をつきました。「昔から人間自体に興味があったし、あの人が私のことを覚えているかどうかさえ分からないでしょう。それに、ずっと会っていなかったから、ちょっと恥ずかしかったの。でも、例のお見合い相手の間抜けな雄狐たちに会わされてから、彼のことが頭から離れなくなって…彼ともう一度話してみたいと思うようになったの」

ゆきが悪戯っぽく笑いました。「今晩はどう?」

若殿は声を上げました。「うん。いい考えだ」と言うと、女将の方を見ました。「家老のところに行って、ここに来るように伝えなさい。狐子は隠れて待っていなさい」と命じました。

女将は深く黙礼をして、立ち去りました。一方、狐子は猫の姿に化け、棚の上に飛び乗りました。

第五十五章

家老の話

しばらくして女将が家老と一緒に戻ってきました。家老は、「殿、私をお呼びと伺いましたが」と言いながら頭を下げました。

若殿は中に入るように手招きしました。「ここに来なさい。聞きたいことがあるのだ」と言いながら狐子がさっきまで座っていた場所を指さしました。

ゆきは問いかけました。「どのようにして父上と出会い、父上のもとでどのようなことをしていたのか話してくれませんか。また、どういう経緯で他国の城代となったのか話してください」

家老は深く頭を下げ、そして指示された場所に腰を下ろしました。「私の父は、幼い頃よりゆき様のお生まれになった国の殿に仕えておりました。殿のお孫様と私はあまり変わらない年頃でしたので、この若君をお見かけする機会が、私には度々ございました。時折、若君は城内にいる同じ年頃の子供達と連れ立って、こっそりと城を抜け出されては外で遊んでいらっしゃいました。そして次第に、若君とお話できるようになったのでございます」

「武術の稽古の間、若君はいつも子供達の中では、一番の剣士でございました。そして他の方々同様、この私も若君にお仕えしたいと望んでおりました」

「私にできることと言えば武術などではなく書類仕事などでございました。なので、間もなく城の中で殿の命令や殿への報告を写したりするようになりました」

「若君は立派な若者になられ、すぐに隣国の姫とご結婚なさいました。しばらくして、二人の間に姫がお産まれになりました。若君に、『どのような名前を家系図に書き込まれますか』とお尋ねしたところ、『ゆき』とご返事なさいました」

「その頃、政局は難しい局面にさしかかっていました。侍と大名、大名と大名、大名と将軍、これらの関係が緊張の度合を増していき、ついには破局を迎えることになったのです。それはまるで山火事で木から木へと火の手が飛び移っていくような勢いでした。妖怪が侍をけしかけているという噂が広まるのと同時に、侍に攻撃され、攻め滅ぼされる大名が増えていきました」

「同じように、ゆき様の故国もまた、賊軍に攻撃されたのです。自分の力を誇り、それを過信していた殿は、若殿が城に残るようにご説得されたにもかかわらず、忠臣を集め、その賊軍を追い払うために城からご出陣されました。しかし、その途中、狭い谷の中で待ち伏せに遭われたのです。隊の中ほどにいらっしゃった殿は飛んでくる岩に当たり命を落とされ、先陣にいらっしゃった若殿もお付きの者共々、敵軍に素早く取り囲まれ、討ち死になさいました。後詰めでいらっしゃった若君は敗走していた兵たちを再び集め、やっとのことで城へ退いていらっしゃいました」

「新たに殿になった若君は城に帰ってくるやいなや、城を守るための準備を始めました。近隣諸国へ援軍を請う手紙を書くようにとも私に命じられました」

「しかしそれらの手紙の返事を受け取る前に、敵軍が城の外に現れ、包囲が始まったのです」

「その頃、私は城内のあちらこちらで手伝っている赤毛のお嬢様の存在に気付きました。少年の頃から、そのお嬢様は時折、殿のお母上の元に訪問にいらっしゃっていて、何度かお目にかかったこともございました。城が包囲されてしまっては訪問されることもあるまいと思っておりましたが、その後、城内の至る所でお見受けするようになり、意識するようになりました。たちまち彼女は私の心を虜にしてしまったのでございます」

「時折、敵営の中に巨大な鬼が見えました。岩を投げて殿のお祖父様を殺したのは、そのような鬼だったそうでございます」

「少しすると、近隣諸国から数人の若殿が秘密裏に城に入ってこられました。その中には隣の国の若殿様、つまり我が殿のお父上様がいらっしゃったのです。これは可能な限りの援軍であるという若殿の父君たちからの返答を携えていらっしゃいました」

「数ヶ月が過ぎた後、その鬼がまた敵営に見えた時に、殿が兵を集め、『外郭を守れ』と命令しました。敵軍が総攻撃を始めたようでしたので、勘定方の私も武器を手に戦う覚悟でやって参りました。その途中、私の心を捉えたお嬢様にお会いしました。嬢様は私にこう懇願されました。『殿からの命で、殿の家族を逃がして差し上げねばなりません。お手をお貸しくださいませんか』」

「私は『手助けいたしますが、最後まで殿のお側でお仕えするのが家臣の務めでございます。皆様だけでお逃げくださいませ』、と申しました。それからお嬢様と一緒に殿のお母上の部屋に参りました」

「殿のお母上と幼い姫様は、お嬢様を連れられ、城の地下に下りて行きました。辿り着くと、すぐに地下道の入口がありました。子供の頃、私はそこでよく遊んだものでしたが、そんな入口があることは知りませんでした。一体どうやって、誰が、いつ、その地下道を作ったのかは想像できませんでした」

「お嬢様達と別れた後に、武器を取りに行こうとすると、すぐに数人の傷ついた兵や加勢のために来た隣国の若殿たちに出会いました。すでに城壁は破壊され、殿が討ち死になされたとのことでございました。外を見ると、全てが混乱していました。もう一度『殿は本当にお亡くなりになられたのか』と隣国の若殿達にお尋ねすると、そのうちのお一人がご確認になられたとの事でした」

「そこで、隣国の若殿たちをお嬢様たちが入っていった地下道にご案内しました。地下道を出た後で、お嬢様達の足跡など探そうと致しましたが、それらしき跡は何もございませんでした」

「若殿達は自分の国に戻る時、生き残った兵を一緒に連れて行きました。私にもそうするように勧めて下さいましたが、その時にはお嬢様達の行方しか私の頭にありませんでした」

「空が暗くなるまで一人でその辺りを調べました。次の朝、殿のお母上の故郷を思い出したので、そこへも行ってみました。しかし、そこにも、誰もいませんでした。それから浪人となり、あちらこちらを巡り歩き、赤毛のお嬢さんを見かけなかったかと誰彼構わず尋ねました。時折、そのようなお嬢さんの姿を見たという答えが返ってきましたが、もう発った後で、どこに行ったのかは分からないと言われるばかりでした」

「二年ほどそのような事が続きました。ようやく、籠城の時にお会いした隣国の若殿の一人が、殿様になったという話を聞きましたので、その方の国に行って、仕え始め、あのお嬢様のことを忘れようとしました。そうして、ゆき様がここに戻ってくるまで、あちらに仕え続けたのでございます」

ゆきが口を挟みました。「他の女のことが好きになったでしょうね」

家老は、「いいえ。捜すのを止めはしましたが、私の心はまだあのお嬢様のことを思い続けています」と、首を横に振りました。

若殿は問いました。「して、その娘の名前は何という?」

「はは、ココと申します」と家老が畏まって答えました。すると、狐子がいきなり棚から飛び降り、当時の姿に化けるや否や、さっと家老の背後に歩み寄り、「あの時、またお会いしましょうと申し上げたのは、この私ではなかったですか」と言いました。

さすがに愚鈍な家老も狐子から身を遠ざけるように、慌て飛び退き、「いっ、一体いつの間に!?」そして、なおも震える手で狐子の頬を恐る恐る触れながら「あっ、あなたは何も変わっていません。ほっ、本物ですか。…狐に化かされているのではあるまいな」と。放心の体で呻くように呟きました。

狐子は気に障ったような表情で、「どうしてそのような質問をするのですか。狐が好きじゃないのですか」と尋ねました。

家老は、「べっ、別に…。あなたが狐が好きと言うのなら、私も狐が大好きです」と、困惑の色を浮かべながら、やっとのことで答えました。

狐子はくすくすと笑いながら「私が本当は狐だったら、いかがですか」と訊きました。

家老は首を振りました。「それはありえません。ココはどこから見ても人間でしたよ。あのお嬢さんが狐だったとは思えません」

狐子は紙と筆を手に取って、漢字を二字書きました。漢字を指さしながら、こう言いました。「これは私の名前です。狐の子と書いて、狐子と申します」

家老は首を振りました。「あなたは人間です。それほどに美しいお嬢さんが動物だということはありえません」

「でも本当に狐なのです。自然な姿をお目にかけます」と言うと、狐の姿に化け、三本の尻尾を腰の上で振りました。「他の姿にもなれます」と、猫、鼠、十一、二歳の男の子の姿に化けてみせ、そして人間の娘の姿に戻りました。「でも、これが昔からの普通の姿です。従姉を訪ねるために、この姿に化ける方法を習いました」

家老はぼんやりと狐子を見返しました。「い…とこ?」とだけ言いました。

「はい。ゆきちゃんのお祖母さんは父の姉の娘でした」と狐子は説明しました。

家老はこめかみを両手で摩りました。「ゆき様のお祖母様は雌狐の娘だったと言うのですか。それはありえません。ゆき様のお祖母様は武家のご出身です。どこから拝見いたしましてもきつねではなく人間でした」

「ゆきちゃんのお祖母様は従姉でしたのよ。人間は人間でも、狐の血筋を引いた人間でした。父親は人間の侍でしたが、母親は人間の姿に化けた雌狐でした。狐が他の生き物の姿に化けて子供を産むと、その生き物の子供になるのです。雌狐は身籠りの間は、姿を変えることができません」と狐子は言いました。「だから、ゆきちゃんのお祖母様は狐ではなく人間なのです」

家老はふらふらと立ち上がりました。「色々なことを考えなくてはいけません」と狐子に言うと、若殿の方に向きました。「そろそろ失礼いたします。お邪魔いたしました」と、うなだれながら、その場を後にしました。

狐子はただ家老の去った後をきょとんと見つめていました。

「かわいそう」とゆきは呟くと、狐子に声をかけました。「元気を出して!」

狐子はただ「はい」とだけ、力なく答えました。そして、自分の姿に戻り、隅で縮こまり、鼻を尻尾で覆って目を閉じました。

第五十六章

寂しげな二人

次の日、狐子が家老に会おうとすると、彼は「いろいろと思案しなければならないことがございますゆえ、今は手が離せないのです」としか答えずに、狐子に背を向けてしまいました。

狐子はゆきのところに行きました。「家老さんが私に会いたがらないの。どうしよう?」と訊きました。

ゆきは「分からないわ。どうしたらいいのかしら」と言うと、女将はそれとなく、「あのお方、どうして狐子様のことが好きになったのでしょうねえ」と一言、口を出しました。

「あ!分かった」と狐子は言って、急いで部屋を出て行きました。

それから狐子は城のあちこちに行って、困っている者がいれば、誰にでも親切にしました。特に、泣いている子供がいると、すぐに狐子はその子に駆け寄りました。その泣き顔は見る見るうちに笑顔になりました。

しばらくすると城の中で狐子の話がよく囁かれるようになりました。

「狐子という人を知ってる?」

「赤毛の子?うん。昨日、うちの子が転んで、膝を擦り剥いちゃったら、あの娘がさっと飛んできて立ち上がらせたの。私が息子の側に駆け寄った時には、もうニコニコ笑ってたわ。膝の血を拭い取ると、もう傷は跡形もなかったのよ」

「うちの亭主は殿様と一緒に旅をしていたんだけれど、その途中、あの子が妖怪に化けて、鬼と戦ったと言っていたわ。そんな怪しい者を子供に近づけるのはいかがなものかしら?」

「へえ?私は妖怪ではなくて、狐に化けたと聞いたわ。狐は妖怪じゃなくて、神様の使者よね」

「ねえ、あの赤毛の子の話をしてるの?私も見たわよ。この頃、あの娘は庭にぽつんと座って、お城の方を見ては溜息をついたりしていたのよ」

「そう!そう言えば、私も息子を連れて一緒に帰る途中で、あの娘の溜息を聞いたことがあるわ」

狐子と家老が再会して数週間の後、若殿はゆきと話しました。「どうやら、最近、家老は政務に集中できなくなっているらしい」

ゆきは頷きました。「そのようでございますね。評定の最中も溜息をついたりぼんやりと壁を眺めたりして心ここにあらずという感じがいたします。これまでは、同じ質問を度々繰り返す必要などございませんでしたのに、近頃は、三度尋ねても返答がない場合も珍しくなくなってまいりました」

「どうやら、狐子と会いたくないようでいて、実は会いたいらしいのだ。二人をなんとかもう一度会わせてみるのが良いのではなかろうか」と若殿はゆきの顔を見つめて言いました。

「かしこまりました。今宵のお茶席には狐子ちゃんと家老を招きましょう」と言うと、ゆきは女将にその旨を伝えました。

第五十七章

茶室にて

家老がゆきの部屋の襖を開けると、狐子が座っていました。「すみません。部屋を間違えたようです」と、家老が言い、そのまま去ろうとすると、ゆきは家老の袂を掴み、「間違いではありません」と言って、恥ずかしさで顔を真っ赤にしている狐子の隣に座らせました。

ゆきはお茶を点て終えると、「あっ!忘れていたことがあります。ちょっと待っていてください」と言って、廊下に出ました。そして、そのまま襖越しにこっそりと聞き耳を立てました。

部屋に残された二人は、居心地が悪そうにしていました。時々、互いに相手の方をちらちらと見ましたが、目が合うと、すぐさま慌てて目を逸らしました。

しばらくして、二人は同時に「ごめんなさい」と言いました。

家老と狐子はやっと目線が合いました。「謝らないでください!全ては私のせいです。あなたのことを思い続けてきたというのに」と強く言いました。

狐子は家老を見つめながら手を取りました。「そんなことおっしゃらないでください!あなたのせいではありません。もっと早く、本当のことを正直に申し上げていたなら…」と答えました。

二人はただ黙って手を取り合って互いの目を見つめていました。ほんの僅かな間のことでしたが、二人にとっては、数時間のようにも感じられたのでした。ふいに、襖が開きました。ゆきがお菓子を持って戻ってきました。「お待たせしてしまいましたね」と、頬を赤く染めた二人に言いました。

それから二人はお互いを捜し求めていた時のことについて話しました。いつ、どこで、どのように手がかりを見つけ、探し出そうとしたのかなど、語り合いました。

「ある村で、赤毛の娘が訪ねて来なかったか、と言う老婆に出会ったことがありました。その老婆は、『その娘は誰かを捜しに来たようだったけれど、数日前に出会ったきりで、どこへ行ったのかは分からない』、と言いました。その老婆のことを覚えていますか?」

「ええ、覚えています。そのおばあさんの息子が城に籠城していて、彼が自分の故郷に逃げ帰ったという噂を聞いたので、その息子というのはあなたかもしれないと思い訪ねて行ったのですが、人違いでした。彼は落城以来、あなたを見てはいないと言いました」

そのような会話が夜遅くまで続きました。だいぶ夜が更けてから、ようやく、二人は笑顔でそれぞれの自室へ下がりました。

第五十八章

琵琶法師の到着

それから家老と狐子は二人でいることが多くなりました。一緒に仲睦まじく庭を歩いたり共に食事をしたりしました。二人はゆきの茶席の常連になりました。時折若殿がその茶席の相客になることもありました。

しばらくすると、気温は冷え込み始め、雪が降り始めました。冬が訪れたのです。

そんな時、小姓がゆきのところに来て言いました。「ゆき様、琵琶法師だと申す者がやってきて、ゆき様にお目通りを願い出ております。ゆき様のお噂を耳にし、教えを受けるために急ぎ参ったとのことでございます。いかがいたしましょうか?」

ゆきは頷きました。「分かりました。では、その者と会いましょう」とゆきが答えると、小姓は会釈をして、去りました。ゆきは茶席の準備を始めながら、「女将さん、殿と狐子ちゃんを探して、こちらにお出でくださるように伝えてください」と声をかけました。

「家老はいかがなさいますか」と女将は訊きました。

「家老も招待してください」ゆきそうが言うと、女将は一礼し、立ち去りました。

しばらくすると、小姓が琵琶と大きな荷物を持った男を連れてきました。男は深く頭を下げ、「はじめまして、ゆき様。私はゆき様について興味深いお噂を耳にしたので、それを確かめたくやって参りました。ゆき様は読書がお好きだと伺いましたので、この本を持参いたしました。どうぞお納めください」

ゆきはお茶を点てると、法師に向かって言いました。「お茶をどうぞ。それはいったいどのような本ですか」

琵琶法師は本をゆきの前に置いて言いました。「日本の歴史書、小説そして和歌集でございます」と、興味深げに一口お茶を口に含みました。「素晴らしい!京でも美味しいお茶を数多くいただきました。それにもかかわらず、私はゆき様のお点前に魅せられてしまいました」

ゆきは真っ赤に頬を染めて、「私はお祖母様から教えられたことを忠実に守っているだけです」と言いました。

「ゆき様のお祖母様のお点前の素晴しさは国中で有名でございました。もうすぐゆき様もお祖母様をしのぐようになられましょう」と琵琶法師は答えました。

「失礼ですが、琵琶法師であるならば、あなたの暮らしが豊かであるとは思えません。そのような方から、このような高価な贈り物をいただくわけには参りません」

「それでは、この本をお譲りする代わりに、この冬の間こちらに居候させていただき、ゆき様のことを学ばせていただくというのはどうでしょうか?」と琵琶法師は提案しました。

ゆきの微笑みました。「それはいい考えですね。もちろん承知いたしました。それならば、この本をいただく代わりにあなたが春になるまでここで過ごすことができるように取り計らいましょう。しかし私の一存では決めかねますので、殿のお許しをいただかなければなりません」と言うと、また茶を点てて、琵琶法師に振る舞いました。

ちょうどその時、家老が狐子と一緒に部屋に入ってきました。「この琵琶法師は私のことをよく知りたいとおっしゃってこちらにいらっしゃったのです。琵琶法師さん、こちらはこの城の家老と私の親戚の狐子ちゃんです。殿のお許しが出れば、琵琶法師さんは冬の間こちらに滞在することになります。私の幼い頃のことについては、二人の方が私より詳しく知っています」とゆきが言うと、琵琶法師は眉をひそめました。「親戚とおっしゃいましたか。ゆき様は赤毛のお嬢様と仲がよろしいという話を耳にいたしましたが、その者がゆき様の親戚という話を聞いたことはございません。ゆき様にはご存命の肉親の方はいないと伺っております。それに、狐子様はゆき様と同じお年頃とお見受けしますが…。どうしてゆき様の幼い頃のことをご存知なのでございますか」と言い終わると狐子の方へ会釈しました。

しかし、狐子は静かに立ったままで、琵琶法師の方を見つめました。彼女の顔は一瞬青ざめてから、火が点いたように真っ赤になりました。ついに、腕を上げて琵琶法師を指差しました。「雄狐め!なんでここに来たの?父が私の尻尾の匂いを嗅がせるために送ったの?人間の姿をしているくせに、匂いを消すのを忘れているよ!」

狐子がそう乱暴に言い放つと、皆は彼女を見つめました。それから少し間があり、琵琶法師は声を出しました。「それは誤解でございます。私は本当に、狐子様のお父上を存じません。家族が妖怪に殺された後で、十五年ほどこの姿をして独りで人間の世界を流れ歩いておりました。ですが、ゆき様は狐と何らかの関係があることを耳にしたので、こちらに向かおうと決めました」

琵琶法師がそう言うと、狐子は恥ずかしそうに少し顔を赤らめて、口を手で覆いました。それから何回も深く会釈をしました。「ごめんなさいごめんなさい本当にごめんなさい!父は私の考えを無視して、狐と結婚するようにしつこく言い始めましたので、それでてっきり…、申し訳ありません!」と言って襖に向かって走り出そうとしたその時、若殿がちょうどそこに立ってました。「おいおい、どうしたんだ?廊下の奥からでも狐子の大声がはっきり聞こえたぞ」と言いました。

若殿に状況を説明しているうちに狐子も落ち着きを取り戻しました。若殿は笑みを浮かべながら、「やれやれ、もう一匹狐がここに住むことになりそうだな。いっそこの城を狐城と呼んだ方がいいかな」と言うと、琵琶法師の方を向きました。「琵琶を弾くというのだな。そなたの逗留を許可する前に、手並みを披露せよ」と命じ ました。

琵琶法師は深くお辞儀をし、琵琶を手に取り、弾き歌い始めました。古い歌や新しい歌、有名な歌や聞き手が知らない歌、色恋や戦についての歌まで、色々詠いました。その間、部屋の外の廊下には、次第に人が集まり、皆耳を傾けていました。彼が歌をやめると、黙って聞いていた聴衆は皆ぱちぱちと手を叩き始めました。

割れんばかりの拍手がようやく収まると、若殿は声を出しました。「居候としてこの城に滞在するのではなく、我が城に仕えてみないか。ここにいる間は、俸給を与える。それほど見事な腕前であれば、どの国の主もそなたを召し抱えたいと思うであろうな。どうしてまだ渡り歩いている?住む場所を探しているのか?」

琵琶法師は溜め息をつきました。「実は、狐の世界に戻りたいのに、どこの部族も自分のようなどこの誰とも知れぬ狐は置いてはくれないのでございます。それに、猫や犬なども私のことが好きではなく、また人間も私の近くに来ると必ずそわそわして立ち去ろうとします。狐子様の言う通り、匂いの問題でございましょう。どうか狐子様、匂いを変える方法を教えてくださいませんか?」と言うと、狐子は「もちろん」と言って、琵琶法師の手を取って部屋の隅に引っ張って行きました。そこで二人は座ったまま静かな声で話し合いました。一方、家老は二人の方を見つめました。

「おい、家老、どうした?何か気になることがあるのか?」声をかけたのは若殿でした。

「そうですね、殿、ただ…矢が胸に刺さったような感じがしました。あの者は見事な琵琶の弾き手ですし、なんといっても狐子さんと同じ狐でございます。…いったいどうやって競えば良いのかと考えております。それに、二十数年後には、私は死んでいるでしょうが、二人はまだ若いに違いありません」

若殿は家老の肩を叩きました。「案ずるな!琵琶法師というのは普通は女性には興味など持たないからな。お前の性格がいいから、彼女はお前のことを気に入ったのだろう。それに、そなたは彼女の人を助けるのが好きなところに惹かれたのではないのか?今回もそういうことの延長だろう。案ずる必要はない」と言って立ち去りました。

それでも、家老は「だが、心配だ。私は彼を妬んでいる。どうにかしてその考えを心から消そうとしても、できるものではない」と呟きました。

「家老さん、お茶をどうぞ」とゆきは家老の独り思案に割込みました。

「あっ、ありがとうございます」と家老は言って、ようやく視線を隅にいる狐子達から離すことができました。

第五十九章

冬の活動

それから毎晩、琵琶法師はゆきの茶席で歌いました。以前にも増して、ゆきの茶席は人気となりました。茶室の外は琵琶法師の歌を聴こうと群がって来た招待にあぶれた者たちで溢れ返るようになりました。

しかし、若殿はそのような光景を好ましく思いませんでした。「廊下は渡るためのものだ。お前の茶席を食堂に移した方がいいだろう」とゆきに言いました。

そこで、その後の茶席は城の食堂で催されるようになりました。夕飯が済んだ後、ゆきはその晩の客を高座に呼んで、お点前を披露しました。一方、琵琶法師は琵琶を弾いて歌い始めました。時々席を立って、歌いながら食堂を渡り歩きました。

琵琶法師は、日中はゆきや狐子達に会い、ゆきについて質問をし、相手の返答を紙に書きとめました。その日の質問が終わると、たいてい自分の部屋に戻り、その日に得た話について考えてみたり、以前の話と比べてみたり、次の日の質問を考えたりしました。ただ、話し相手が狐子の場合は、時々 一緒にしばらく残り、狐子の家族の話をしましたが、そのことは書き留めませんでした。しばらくすると、琵琶法師と狐子は、お互い相手の知らないまじないを使えると知って、教え合いました。

琵琶法師は何度か家老に会ってくれるように頼みましたが、家老はいつも会うことを拒みました。家老は茶席も避けていましたが、狐子が頼むと、しぶしぶ参加しました。

琵琶法師の腕前の噂を聞いて、茶席に招待してほしいという請願書を書く町人達が日に日に増えていきました。請願書の数を見た若殿は、「そんな大勢を食堂に入れるのは無理だろう。でも、ある程度人数をしぼることができるのなら招待しても良かろう」と、決められた人数の者を招待することを許しました。それ以来、毎日、請願書を書いた者の中から、決められた人数だけ抽選で選ばれて招待されるようになりました。招待客として選ばれた者は、雪が降り積もろうと冷たい風が吹こうと、必ずゆきの茶会へ現れるのでした。

第六十章

狐の到着

ある日、狐子が茶席の後で大広間を出ようとすると、彼女の前に一匹の狐がいました。狐子は一瞬呆然として狐を見つめてから、「父さん!どうしてここにいるの?」と聞きました。

「お前の決心をずっと待っていたのだ。狐子や、どの狐と結婚するのだ?」と狐が言うと、狐子は「ええと、実は…」と言いよどみました。そして、狐子の横に家老が現れました。「狐様、はじめまして。昔からお嬢様のことをお慕いしておりました。狐子様と結婚させていただければ、大変嬉しいのですが」と深く頭を下げながら言いました。

狐は首を横に傾けました。「人間なのだな?やはり、この子は、いつも人間ばかりに関心が向いている」と呟いた時、狐子の向かい側に琵琶法師が現れました。「あなた様は狐子様のお父上なのでございますか?お嬢様は本当に気立ての良い方でございますね」と深く頭を下げました。

家老は狐子の頭越しに琵琶法師を睨みつけましたが、琵琶法師は気がつかないようでした。狐子は困った顔をして左右を見ました。

「やれやれ、もう一人も人間か?いや、人間じゃないな。狐の呪いの跡を感じる」と呟いてから、三人に向かって言いました。「三人とも、人ごみから離れよう」と言って、尾を振りながら大広間に入って、三人を高座の方へ連れていきました。

大広間を出ようとしていた者たちがそれに気づき、立ち止まって呆然と狐たちを見つめました。そのうちにこのような会話が聞こえました。

「狐が!」

「妖怪が!」

「馬鹿!狐は妖怪じゃない!殿様の味方にも、妖怪に対して戦う狐がいるではないか!」

「なるほど」

ゆきと若殿はまだ高座にいました。ゆきは狐を見ると、「狐どの─いや、狐叔父上、久しぶりですね。どうしてこんな天気が悪い時に来ようと決めたのですか」と言って、お茶を点てて、狐に振舞いました。

狐はお茶を飲みながら狐子の方を見ました。「この子はあの話をしましたか?」

狐子は父親を見ました。「私はもう子供じゃないのよ!」と言ってから、顔を真っ赤にして、目を伏せました。「とにかく、伯母上が許してくれた」と呟きました。

狐は首を横に傾けました。「そうか?なるほど。おそらく姉はようやく喪が明けたのだな。姉と会った方がいいだろう」と言うと、家老の方を見ました。「あなたはこの国の家老なのですね。昔から娘のことが好きだと言っていた方ですね。狐子と出会ったきっかけをうかがってもいいですか?」と尋ねました。

「少年の頃、まだ城の廊下を歩いている時でございました。その頃、時折父上と思われる男性と一緒に城に来ている赤毛の女の子がいたことが気付きました。そのお訪ねのことですが、なぜか緩んだ床の板に私が躓いて転んでしまって時、あの赤毛の娘は立ち上がることを手伝ってくれいました。でも、籠城している時まで、赤毛の娘のお訪ねは短こうございましたし、次のお訪ねまで数ヶ月がかかりましたので、親しくなる機会はあまりございませんでした。その頃、狐子様はいつも他人を助けようとしているようでしたので、好意を持ったのでございます。落城の際、私は狐子様とは離ればなれになってしまって、ゆき様が帰ってくるまでお会いすることができませんでした」

家老がそう言った時、狐は人間の姿に化けました。そして、「その赤毛の女の子が一緒にいた男というのは、このようでしたか」と問いました。

家老は首を捻りました。「そうですね。十五年以上も前のことなので、よく覚えていませんが…多分、そうだと思います」

まだ大広間に残っていた人々は、それを見てこう囁きました。

「あれを見た?」

「見た、見た!狐が人間に化けた!」

「狐子様が狐に化けたという噂を聞いたが、この目で見るまで信じられなかったよ!」

それを聞くと、若殿は、「ここは人目が多いので、私の部屋に行きましょう」と言うと、狐たちを連れて大広間から出て行きました。

第六十一章

琵琶法師の話

部屋に入ってから、若殿は声を上げました。「狐どの、狐子さんはいつでもここにいるのに、どうしてこのような吹雪の晩まで待ったのですか」

「私ども狐にとって、行きたい場所があれば、悪天候など問題にはならぬのです。この子の決心を待っているのは私だけではありません。娘を紹介した狐たちや、その者達の族長達も待っているのです。『狐子はいつ、誰と結婚するか』としつこく尋ねる周りの声に負けて、娘の思いを尋ねようとやってきたのです」と言うと狐は、狐子の方を見ました。「お前、誰か心に決めた相手でもいるのか?」

狐子は溜息をつきました。「まだ分からない」と彼女が言うと、家老は顔を伏せました。「でも、あんな、人間に興味がない狐達なんかと結婚したくない」

狐は頷きました。「なるほど。ではこちらの、お前と結婚したいと言うこの人間のことはどうなのだ?」

狐子は家老の方を見ました。「そうね。この方と結婚したいと思っていましたが、伯母上のことを思い出すと、少し不安になってしまいます」狐子は琵琶法師の方を振り返りました。「この琵琶法師は人間のことをよく知っているでしょうけど…そんな天涯孤独の狐なんかと結婚したいかどうか迷ってしまうし…」

家老は肩を落としました。「私が何年も夢見て、ようやく叶うと思ったのに、全ては幻だったのか。二年も捜し回って、その後も十数年待ちに待った相手にやっと再会できたと思ったら、よりによって彼女を不安にさせることになってしまったとは。諦めた方がいいようですね」と家老は言って、立ち去ろうとすると、狐子は彼の手を掴んで引き止めました。狐子は「ごめんなさい!そんなつもりじゃなかったんです」と言いました。そして家老を隅に連れて行くと、二人は声を潜めて話し出しました。

狐はその光景を見ると、「娘は決められないと言ったが心の中では、どうしたいかが決まっているようだな」と呟きました。琵琶法師の方へ向かい、「いつも人間の姿をしている狐は珍しい。娘がそういうことをするのは伯母の影響だよ。お前は、どうして人間の姿をして人里に住み続けているのだ?」と尋ねました。

「私は望んでこのような姿をしているわけではないのでございます。ただ、そうせざるを得ないのでございます。ある日、私が幼いころ、独りで林で遊んだのちうちへ帰ると住みかに天狗が群れて集まっていました。古木の穴に隠れて、天狗がいなくなるのを待ちました。それから私が住みかに恐る恐る近付くと、そこにあったのは倒れた家族の姿だけでした。父も母も兄弟も皆殺されてしまったのでございます」

「恐しくてその場を逃げ出し、後ろも振り返らずに一目散に林を走り抜けました。しばらくすると、疲れてお腹が空いてきて、人里の道の傍らに横たわりました。そうしているうちに、歌が聞こえてきました。ぼんやりとしながら、ふと見上げると、人間の老人が歌いながら近付いてくるのが見えました。老人は私の側に来ると、歌うのを止めて、『神様に届きますように』と、乾し肉を道端に置きました。そしてまた歌いながら歩いていきました。私は肉を食べてから老人の後をついていきました」

「その晩、老人は町に着くと、建物に入りました。私は路地に隠れて待ちました。次の朝、老人が建物を出て旅を続けると、私は、またついていきました。陽が高くなると、彼は道端で持っていた包みを広げて、食べ物の一部を地面に置いて祈りを捧げてから、食事を始めるのでした」

「そのようなことが数日間続きました。ついに、姿を変えるまじないを覚えてから、私は勇気をふりしぼり、老人が昼食をとっている時に人間の少年の姿に化けて、老人に近付いていきました」

「『小狐さま、こんにちは。これは粗末なものですが、もしよろしければどうぞ』と、老人は弁当を私の前に差し出しました」

簡単に正体が見破られたのでしばらく呆然とその場に立ち竦んでおりました。そして、尻尾でもしまい忘れたかと背中を触ったり、髭でもあるかと顔を撫てみたりしました。そして、やっと我に返り、声を上げました。『へえ?じいさん、どうして僕を「小狐」なんて呼ぶの?ちゃんと人間の子の姿をしてるだろう?』」

老人は静かに笑いました。『小狐さま、わしは山のように年をとってはおりますが、この耳と目はまだそれほど衰えてはおらんのですよ。それに、これほど長く世の中を見て回っておりますと、もちろん不思議な経験をすることは山ほどありますのじゃ。小狐が毎日毎日ふわふわと後をついてきていたと思ったら、突然落ち葉の中から降って湧いたように男の子が現れたのですから、あなたが小狐さまだと分かるのは訳ないことでございます』」

「『なんにしろ、僕に「さま」なんてつけないでおくれよ。僕は特別に偉い狐なんかじゃなくて、平凡な奴だよ』と言うと、老人の隣に腰を下ろし、貪るように食べ始めました。それからは、老人はいつも私のことを『平凡』と呼びました」

「数年間私はその琵琶法師の老人と共にあちこちを渡り歩き、老人はまるで私が弟子ででもあるかのように琵琶などの楽器の弾き方や様々な歌を教えてくれました。でも、ある日、道を歩いていると彼は胸を押さえて、そのまま倒れこんでしまいました。私は助けたいと思いましたが、何もできませんでした。『平凡や、お前は子供のないわしにとって息子のような者だ。別れるのは辛いが、わしがこの世を去る時が来たようじゃ。わしは全てをお前に遺す。達者でな』とそう言い残すと、私の腕の中で息を引き取りました。私の師匠―いや、私の唯一の友達―はこうして亡くなってしまったのでございます」

「道端の咲き乱れる野の花の中に彼を葬りました。それから私は少年の姿をやめ、若者に化けて、放浪の旅を続けました。その旅は連れ合いもなく、寂しいものでしたので、だんだん狐と棲んでいた頃を懐かむようになりました。それで、狐の住処があるという噂を求め、訪ね歩くようになりました」

「時折、そういう噂を辿っていくと、狐の住処を見つけることがありました。でも、せっかく訪ねていっても、『お前のような、尻尾が一本しかない、人間被れした、どこの馬の骨とも分からぬ奴には用はない。出ていけ!』とすげなく追い返されるのが常でした。それから、人間の世界に戻って、琵琶法師として国から国へ、城から城へ、宿から宿へと次の噂を求めて歩き続けました」

「ようやく、今年の秋、狐と関係を持つ国の新しい大名についての噂を聞きました。その国の近郊で噂を調べると、大名よりゆき様という大名の奥方が狐と関係が深いようでした。それに、ゆき様についての面白い噂を山のように聞きました」

「こちらに着くと、以前に訪ねた所より優しく扱われました。特に驚いたことは、他にも人間の姿をしている狐がこちらに住んでいるということでした。よろしくお願いします」と突然言うと琵琶法師は、狐の方へ向かって深く頭を下げました。

狐は首を傾げました。「まだ尻尾が一本しかないと?お前、渡り歩きながら、何のまじないも習わなかったのか?」

「まじないなどを教えてくれる者はいなかったのです。でも時折自分で練習しているうちに、ごく簡単なまじないだけは出来るようになりました。最近では、狐子さんが教えてくださいます」と琵琶法師は言って、狐子の方を見ました。

「そうか」狐の目は琵琶法師の視線を辿って狐子の方を向きました。「狐子や、ここに来なさい」と言うと、狐子は「はい、父さん」と言い、飛び上がって狐のところに来ました。家老は狐子の後に付いて行きました。

「本当にこの者にまじないを教えているのか?」と狐は訊くと、狐子は頷きました。「そうです、お父様。その代わりに、私が知らなかったまじないを教えてくれるのよ」と答えました。「簡単なまじないでも、とても便利なの」

狐は軽く頷きました。「そうか。よし、今度我が住処でお前の実力を試してみよう。そうすれば、お前が何本の尻尾に値するか分かるだろう」

「ありがとうございます。でも、それは自分で決められることではございません。なぜなら春までこちらの殿様にご奉公いたすことになっておりますので、勝手にお暇することはできませんので」と琵琶法師は言って、若殿に目をやりました。

「やれやれ」と狐は呟いてから、若殿の方を向きました。「では、若殿、この琵琶法師の狐を数日間貸してもらえませんか。彼の実力を調べたいのです。娘の狐子はこの頃彼のまじないの師になったようですから、彼女も一緒に三匹…」

「三人!」と狐子が言いましたが、狐は構わず「で行ってきます」と続けました。

若殿は頷きました。「琵琶法師の音楽は本当に楽しいのだが、ここにいると、争いごとになるようです。しばらく休暇をとったほうがいいでしょうね。しかし、二週間ほど後に、父上がここにお越しになる予定です。その前に、琵琶法師を連れ帰ってきてください」

「もちろん」と狐は言うと、狐子達に声をかけました。「狐子や、この琵琶法師の実力を試しに行くぞ。一緒に来なさい」

「はい、父さん」と狐子は言いました。

家老は声を上げました。「殿、狐様がお許しくださるなら、狐子さんと一緒に私も行きたいのですが。数日間お休みをいただけませんか。どうかお願いいたします」と言いながら深く頭を下げました。

「ふむふむ。父上をお迎えするための準備がまだ終わらないので、難しいところだな」と若殿が言うと、ゆきは声をかけました。

「あなた、許してあげてください。家老の代わりに私が留守を取り仕切りますから」と言いました。

「そうか?意外だな。お前も行きたいと言い出すかと思っていたが」と、若殿は優しくゆきの頬に触れました。

「気持ちは殿がおっしゃる通りですが、いくら行きたくても、今は行けませんもの」とゆきは言って、大きくなった腹を摩りました。

若殿は頷いて、狐に向かいました。「よし。この怠け者の家老と琵琶法師を一週間以内に連れて戻ってきてくれるのなら、二人とも連れて行っても構わんぞ」

第六十二章

旅の初め

狐達が城を出ると、外は酷く冷たい吹雪でした。狐は大声で、「狐子や、先に琵琶法師を瞬間移動で連れていって、人が住める住処を準備させなさい。家老は私が連れて行くから」と言いました。

「父上、どうしてご家老様は私と行けないの?みんなで行きましょう」と狐子は訊きました。

「一週間しかないから、明日の朝早くから試験が始まるんだ。お前も彼の師として参加しなければならないから、二人ともできるだけ早く着いて寝たほうがいいのだ」と言いました。そして、家老を指さしました。「その人は瞬間移動ができない。それに、彼はこんな酷い天気の中にはいられない。尻尾が三本しかないお前は、彼を背負ってうちまで走っていくことができるかい?」

狐子は「分かった。分かったわ」と、溜息をつきました。琵琶法師に向かって、「じゃあ、元の姿に戻って行きましょうか」と、続けました。

「すみません。そういうおまじないはまだ知りません」と琵琶法師は言いました。

「何ですって?まだ教えていなかったっけ?…いいえ、そんなはずはないと思うけど?じゃあ、簡単なおまじないだから、すぐにできるようになるでしょう。こうです」と言って、おまじないの使い方を教え始めました。

「私を背負って走る?なぜですか?狐様、私は馬で行くとばかり思っていましたから…」と家老は困惑したように言いました。

「ほら、家老どの!今夜は、この私があなたの馬です!」と狐は言って、大きな黒い馬の姿に化けました。一瞬だけ七本の尻尾が見えました。「普通の馬より速く走れますよ!乗ってください」

「しかし、鞍も手綱もありませんが…」と家老が言うと、狐はこう答えました。「そういう馬具は必要ないですから、大丈夫です。乗りなさい!」

家老が馬の姿をしている狐に乗ってから、狐は城門へ小走りして行きました。家老は走っている狐に乗ったまま、さっき出た玄関の方を振り返って見ました。渦巻いている雪の向こうには、一瞬だけ二匹の狐の姿がうっすらと見えました。そして、もう一度玄関が見えた時には、その姿はもう消えていました。

第六十三章

狐の土地へ

馬の姿をした狐は町を出ると、歩みをいっそう速めました。早足というより、駆け足でした。夜の闇に、馬の肌は青く眩い光で照り映えるようでした。

その足どりは、まるで雪の上で軽やかに踊っているようでした。新雪が深く積もったところでも、馬の蹄は雪に埋もれることはなく、浮いているようでした。

家老は冷たい風を感じることも、渦巻く雪に触れることもありませんでした。しかも、馬がいっそう速く走っているにもかかわらず、波のない水の上を滑っているような気がしました。

地面に積もった雪と、周りで渦巻いている雪以外、何も見えませんでした。

いつまでそうしていたのか家老には分かりませんでしたが、ようやく狐は速度をゆるめました。林に入ったようでした。前方に現れる木々が次々と背後に消えてゆきました。

突然、空気が温かくなりました。風は止み、雪は小雨に変わりました。馬は足を止めました。夜の闇に一匹の狐がうっすらと浮かび上がりました。「族長、ご命令の通り、人間用の住処を掘っておきました」

「よし。では家老どの、降りてください。この者が寝室にお連れいたします。私はうちへ戻ります。おやすみなさい」と狐の族長は言いました。家老が降りると、狐は自分の姿に戻って、去りました。

待っていた狐が立ち上がりました。「家老さま、こちらへ」と言って、歩き始めました。

家老はその青い燐光を放つ狐についていきました。「すみません、狐どの。名はなんと申すのじゃ?」と聞きました。

狐は「八狐と申します」と答えました。

「ハチコですか」と家老は聞きました。

「そうですよ。八つのハチ、狐のコです」と八狐は答えました。

二人が歩いていくと、突然、闇の奥から冷笑が聞こえました。「ほら、あれを見ろよ!人間だ!自分の住処すら作れないらしい」

八狐は声を上げました。「黙れ、間抜け!こちらは族長のお客だぞ!」と叫びました。それから家老に言いました。「ごめんなさい。人間が好きではない狐もいます」

「分かりました。狐が好きではない人間もいますから」と家老は答えました。

しばらくすると山の斜面に着きました。その斜面には人間の高さほどの入り口があり、そこから青い光が漏れていました。

家老は八狐に続いて中へ入りました。掘ったばかりの土の匂いがしました。短い廊下の先には六畳の部屋がありました。その奥の寝台のそばには青く光っている玉がありました。寝台には布団がもう敷いてありました。

八狐は玉を示しました。「これを二回軽く叩くと、灯りが消えます。もう一度触れると、灯りがつきます」と言って、去ろうとしましたが、家老は彼を呼び止めました。「すみません。狐子さんはもう着きましたか」

「はい。狐子様はもうお部屋で休んでおられます。狐子様のお連れもあちらでお休みです」

「あれ?一緒に寝ているのですか?」と家老はびっくりしたように言いました。

八狐は笑いました。「とんでもない!族長の住処には色々な寝室があるのです」と言って、去りました。

家老は着替えてから光の玉を叩いて、寝ました。

第六十四章

子狐との出会い

翌朝、家老が目覚めると、入り口から差す光で部屋の中に何かが薄ぼんやり見えました。布団の側には角盆がありました。家老が玉に触れて灯りを灯すと、盆の上には食事と手紙がありました。手紙を手に取って、読みました。

『家老さんへ』

『一緒に食事をとりたかったけれど、よく寝ている姿を見ると起こすことができなかったの。ごめんね』

『試験がすぐに始まるから、もう出掛けなくちゃ』

『狐子より』

家老は手紙を読んでから、愛おしげに折り畳んで、懐にしまいました。それから、食事をとり、着替えました。

部屋を出ると、そこは狭い谷の中でした。谷の間を流れている小さな川は霧の中に隠れてしまいそうでした。低く垂れ下がった雲が空を覆っていました。

谷のあちこちに、小さな穴が開いていました。沢山の狐が百匹も二百匹も、谷の至る所で歩いたり遊んだりしていました。

「母さん、見て!妖怪がいるよ!」

家老が振り返ると、近くにいた小さな子狐が家老を指さしていました。

「妖怪じゃないよ。それはただ一人の人間なんだよ」と母狐は答えました。

「人間は妖怪じゃないの?おじさんから人間の話を聞くと、いつも怖くなるよ」

「違うよ。人間は火を吐いたりはしないの。おじさんの話は大げさなんだよ」と母親は言って、家老に向き直りました。「息子を許してください。まだ幼くて、谷を出たことがないのです。人間に会うのは初めてなんです」

「気になさらないでください」家老が子狐達に近づくと、彼は母親の尻尾の下に隠れようとしました。家老は腰を下ろしました。「実は以前、人間が火を吐くところを見たことがある」

子狐は尻尾の下から顔を覗かせました。「本当?」

家老は頷きました。「祭りの時だった。旅役者のうちの一人が松明を持っていた。どうやったのかは分からないが、彼は松明の炎を吸ってから、長い炎を吐いたように見えたな」

子狐は尻尾の下から一歩出てきました。「すごい!おまじないだったの?」

家老は少し間を置いて、「どうかな。普通の人間はおまじないなどできないから、何か仕掛けがあったんだろうね」

子狐はもう一歩近づいてきました。「人間はおまじないができないの?全然?」家老が頷くと、子狐は続けました。「僕でも簡単なおまじないができるのに?見て!」と言って、傍らの小石に前足を置きました。前足を上げると、その小石は青く輝き、しばらくしてその光は消えました。

家老は小石を取り上げました。どこにでもある灰色の小石でした。「私にはできないな。人間がこんなことをすると、人間の姿をした狐かと思われてしまうよ」

「よくおっしゃいました」とふいに声がしました。家老が振り返ると、そこに座っているのは八狐でした。

家老は立ち上がって、会釈しました。「おはようございます、八狐どの。狐子さんに会ってもいいですか」

八狐は首を振りました。「残念ですが、受験者しか試験場に入れません。ごめんなさい」八狐はくすくすと笑いました。「それに、人間は大きすぎて、入り口から入ることはできませんから」

家老は側の穴を見て、苦笑しました。「こんなに小さいと、確かに入れないでしょうね」

「今晩、狐子様にお会いになれるでしょう。お姫様は家老様とお会いになりたいとおっしゃっているので、今お風呂や着替えを準備しています」と八狐が言うと、家老は立ち上がって、親子に軽く会釈し、「では」と言って八狐についていきました。

第六十五章

姫との出会い

家老が湯に浸かったのは霧に隠れた温泉でした。風呂から上がった家老は岩に置かれた着物に着替えました。それはたいそう古い侍の着物のようでした。

「八狐どの、どうしてこのような着物を着なくてはいけないのでしょうか。私の身分に相応しくないと思います」と家老は尋ねました。

「お姫様のご希望なのです」と八狐は答え、立ち上がって家老を谷の反対側へと案内しました。

家老はまた尋ねました。「お姫様は一体どんな方でしょうか。ご身分の高い狐でしょうか?」

八狐は頷きました。「その通りです。族長の姉上様でいらっしやいます」と答えました。

「族長様の姉上様ですと?…人間と結婚していらっしゃったお方ですよね」と家老が言うと、八狐はしばし足を止めて、家老を見上げました。「その話をご存知なのですか」

「そのお話を先日狐子さんがゆき様達にしていました。伯母さまが、話すことを許されたと言っていました」と家老は説明しました。

「分かりました。さあ、お姫様がお待ちかねでいらっしゃいます」と八狐は言って、また歩き始めました。

二人は谷を登りました。しばらく山を歩くと霧の中に入りました。小径を歩いて、ようやくある建物に辿り着きました。

その建物は御殿というよりは田舎侍の家のように見えました。家の入り口の側に八狐は座りました。「お入りください」と言いました。

家老は「お邪魔いたします」と言って、戸を開けました。

奥の部屋は確かに普通の田舎侍の家の部屋に見えましたが、誰も住んでいないように思えました。

「お姫様」家老がそろそろと部屋に入るとうっすらと人影が見えてきました。

突然、灯りが点りました。灯りに照らされたのは二十四、五歳の美しい女性でした。見かけは若いのですが、彼女の目を覗きこむと、歳を重ねているようでした。

家老は深々と頭を下げました。「お姫様、初めてお目にかかります。ゆき様とおっしゃるあなた様の血縁に当たるお方に仕える家老でございます。ゆき様のお父上の時代、つまり、お孫さまの時代には、私はお孫さまの廷吏でございました。よろしくお見知りおきのほどを」

女は深い溜息をつきました。「私はここにいる時は、ただ侍の未亡人のつもりでおります。姫などとおっしゃらないでください」

「あなたさまがご身分の高い狐でいらっしゃるということを忘れることがあっても、お仕えした主のご先祖だということも、結婚したい女性の伯母上だということも決して忘れることはありません。失礼なことを申し上げました」と家老は言いました。

「結婚したい女性…?それは狐子のことでしょうか?」家老が頷くと、女は少し考えて次のように言いました。「では、どうぞ私のことは『おば』とお呼びくださいな。こちらにお座りください。ゆきのことを詳しく話してくださいませんか」と尋ねました。

第六十六章

晩の会話

一日かけて、家老はゆきについて詳しく話しました。女は詳細を知りたがり、家老の話を何度も遮りました。

しばらくして、家老はようやく女の質問攻めから解放され、家の外で待っていた八狐と一緒に谷へ戻りました。

家老は、自分の部屋のそばに赤毛の女が座っているのに気付くと、足早に近寄りました。「狐子さん!ただいま戻りました!」

狐子は立ち上がりました。「お帰りなさい。どこに行っていたの?」

「あなたのおばさまにお会いして、ゆき様のことを一日中話していたんだ。質問攻めにされたので頭が痛くなるほどだったよ。明日、また来るように言われたよ。疲れたよ」と家老は言って、腰を下ろしました。

狐子も家老と向かい合わせに座りました。「どこで会ったの?人間の姿をしていると、伯母ちゃんの住処に入ることはできないはずよ」

家老は谷の向かい側を指差しました。「あそこの家だった」

「へえ…伯母さんは誰も入れたがらなかったのに!」

「私は入れてもらえましたよ…今日はむしろ、おばさまから招かれたんだ。…でも、この着物を着せられたんだよ。ところで、狐子さんの方はどんな風に過ごしたの?」

「一日中琵琶法師さんがおまじないをするのを見てたの。彼がこのおまじないを覚えてるかしらとか、このおまじないを教えてあげたかしらとか、はらはらしてたわ。自分の試験よりも大変だったわ」

「試験はいつまで?」

「いつまでかしら?たいてい、一日で終わるけれど、別の流派のまじないの本当の能力を見分けるのは難しいから。特に今回、彼は独学…ところで、父上が今晩、あなたと食事をしたいと言ってた。すぐに行かなくちゃ」と狐子は言うと立ち上がりました。

「へえ?どこに?お父様の住処には入れないだろうね」

「住処の外に天幕を張ったのよ。行きましょう!」と狐子は言って、家老の手を取り立ち上がらせました。

二人は、日が落ちてすっかり暗くなった谷を歩き、狐子の住処へと向かいました。

第六十七章

族長との会話

食事の後で、狐の族長が家老と狐子に声をかけました。「家老どのの願いを許すかどうか決める前に、二人に話したいことがあります」

狐子たちが頷くと、族長は話を続けました。「狐の一生は人間より何倍も長いので、狐と人間の結婚には難しいものがあります。どんどん歳を取り、やがては死んでいく配偶者を見るのは、狐にとって辛いことなのです。人間の場合、配偶者が狐だと分かるや、どんなに狐が歳を取るふりをしても、狐が歳を取らないばかりか、人間よりも遥かに歳を取り方が遅いことに関して、想像することはできてもそれ以外は何もしてあげられないので、結局は妬んだり疎ましく思ったりすることになるでしょう」

「それに、狐が歳を取るふりをせずに長い時間人間の世界に住んでいると、人間の配偶者がその狐のことを妬んだり疎ましく思ったりしなくても、周囲の人間が狐を恐れたり嫌ったりするでしょう。そういう人間は人間に化けた狐が怪しい魔法を使っているとか、仲間や親戚が病気になったり死んだりするのは、狐に憑かれたからだなどと言って悪いことを狐のせいにするようになるでしょう。そして狐を殺そうとしたり、狐の秘密の呪いを盗んでやろうと思うかも知れません」

「あの琵琶法師のように、狐が長い時間人間の世界に住むと、狐の世界に戻るのは難しいかもしれません。狐の生活より人間の生活の方に慣れたり、狐の仲間より人間との方が仲良くなったりするでしょう」

「姉上の場合、人間の世界に住む時間はそれほど長くはなかったが、夫があのように若くして死んだし、姉上は赤ん坊を人間の世界に手放したので辛い思いをしました。人間との結婚を許さない狐もいて、赤ん坊を手放すことを許さないこともありました。しかも姉上は自分自身に厳しかったようです。だから姉上が狐の世界に戻ってきても、狐の仲間に入ることはできなかったのだと思います。姉上は他の狐から離れた所に自分の住処を掘り、近くに人間の家を真似た建物を作りました。その場所から姉上は未だに離れたくないようです。しかし今でも、手放した娘とその息子とゆきを気遣い、私に彼のことをたびたび尋ねるのです」

「二人とも、このことをよく考えなさい。考えた上でなお結婚したければ、許すか許さないかは私が決めます」

家老は複雑な面持ちで顔を伏せました。一方、狐子は声を上げました。「父さん、そうだったのね。昔からずっと考えている。伯母上のことを忘れることができると思っているの?でも…」狐子は深く溜息をつき、目線を落としました。「それでも…人間に興味のない狐なんかより、この家老さんと結婚したい。私のように人間が好きな狐がいたら…でも、そんな狐はいないみたいね。あの琵琶法師でも人間の世界に住むほど興味はないようなの。私、うちに帰ってくると、人間の世界に戻りたくて、いても立ってもいられなくなるの。夫が人間の世界に住みたくないのなら結婚する意味がないじゃない」

家老は顔を伏せたまま強い口調で言いました。「狐子さんが狐だと気づいた時、一月ほど狐子さんと距離を置いて、このことについて考えました。しかしずっと狐子さんのことで複雑な思いでいました。彼女への想いを諦めた後でも、狐子さんと再会する今までずっと、他の女性に会うたびに狐子さんのことしか思い出されませんでした。私の心は狐子さんの虜になってしまいました。狐子さんと結婚できないのなら、生涯、だれとも結婚するつもりはありません」

族長は「ふむふむ」と呟きました。

家老はようやく顔を上げました。「族長様、恐れながら、お聞きしたいことがございます」族長が頷くと、「狐と人間との結婚がそれほど大変なことならば、お姉様はいったいどうして人間と結婚することになったのですか?」と聞きました。

族長は深い溜息をつきました。「それは私自身の話ではありません。姉上本人に聞きなさい」

しばらくすると、会話が途切れました。天幕を出て、狐子は家老と一緒に彼の部屋へ歩いていきました。

暗闇から声がしました。「ほら!狐子の奴が人間を飼い馴らしたみたいだぞ!今度はあれを乗り回すのかな」と、その声の主はあざ笑っていました。

狐子は怒ったように怒鳴りました。「こら!卑怯者!出てきて堂々と言いなさい!私は一人で鬼に立ち向かったことがあるんだよ!あんた、怖くて住処から出られないくせに」と狐子が言うと、家老は狐子の腕を掴みました。「狐子さん!落ち着いて!言わせておきなさい!」

狐子は家老を抱き締めました。「ごめんね。あんなふうに意地悪なやつらのせいで、伯母上は谷の外に住処を掘ることになったんだと思う。それが、私がここにいたくない理由の一つなの」と狐子は言いながら、泣き始めました。

家老は狐子の背中を撫でました。「ほらほら、泣かないで。いつも元気な狐子はどこへ行った?」

狐子は袖で涙を拭って、家老を見上げました。「気をつけて。ここに来なければよかった。私か父上か八狐さんがいない時は、決して部屋の外へ出ないでちょうだい」

「大丈夫だよ。今朝八狐さんに会う前に、狐母子と会ってその息子に、私が妖怪じゃないことを証明したよ。問題はないだろう」と家老は言って歩き出そうとしたが、狐子は彼の手を掴んで止めました。

「何言ってるのよ!その子は良くても、人間のことを妖怪だと吹き込んだ奴のように人間のことが気に食わない狐は沢山いるわ。狐同士でも化かし合いをするのよ。彼のほとんどは父上が招いた客を傷つけるつもりはないけれど、人間は弱い生き物だということが分からないのよ。狐なら平気だけど、人間を傷つけてしまうことがよくあるの」

「それに、父上を失脚させたいくらい人間を嫌っている狐もいるわ。そいつらは、伯母上が人間と結婚したことや、私がここより人間の世界に馴染んでいることを根に持って、父上は族長として相応わしくないと言っている。それに奴らは、得体の知れない狐や、狐と結婚したいなどと言う人間をここに連れてくるなんて許せないと言っているわ。あなたが傷つこうが死のうが、あいつらは何とも思わないでしょう。お願い、本当に気をつけて!」

家老は言葉を失い、狐子の顔を心配と恐怖が入り混じった表情で見ました。「そういうことであれば、部屋で話した方がいいんじゃないか?あいつらに聞かれてはまずい」

「うん」と狐子は頷き、再び二人は家老の部屋へ向かいました。

第六十八章

八狐との会話

翌日、家老が目覚めると、狐子が枕元に座っていました。彼女の側に置いてあった角盆から美味しそうな匂いがしました。

二人が食べたり喋ったりした後で、部屋を出ると、そこには八狐が待っていました。狐子は狐の姿に戻って立ち去り、家老は八狐を姫の家へ案内することになりました。

その途中、家老は八狐に尋ねました。「八狐どの、狐子様がお父様のことを気になさっているようです。あの方が私達をこちらに連れてきたせいで、族内の問題が山のように積もっているとのことです。どう思いますか」

「そうですか。多分、狐子様はあまりこちらにいらっしゃらないので、事情をよくご存じないのかもしれません。私達にとって、この問題はあまりにも身近過ぎて冷静に見通せないところがあります。狐子様の方が、むしろ事態に判断することができるかもしれません。しかしながら、族長様より強い狐はただの一匹しかおりません。もしその方と族長様とが力を合わせれば、たとえ一族全員が族長を倒そうとしても倒せないでしょう」と八狐は答えました。

「なるほど。その方が族長に挑んだら、どうなるでしょうか?」と家老は尋ねました。

八狐は数回尻尾を振りました。「そのようなことがあるとは思えません。お姫様は権力を手に入れることに興味をお持ちでないようです」

家老は目を丸くしました。「お姫様ですと…?お姫様がそれほど強いのなら、どうして谷から追い出されたのですか」

「追い出されたわけではありません。ただ、お姫様は狐の社会に戻っても、そこにはもう住めないでしょう。他の狐のいじめのせいではなく、ご自分が不安なので、谷の上に住処を掘ったようでございます」と八狐は答えました。

家老はしばらく黙り込みました。それから、「もし誰かが族長様に対して手を出したとすれば、お姫様はどうなさると思いますか。弟の族長様を助けるのですか、住処に残ったまま結果が出るまで待つですか」と聞きました。

「そうですね」八狐は少し考えました。「そのようなの場合、もし族長様が倒される可能性が高くなければ、住処にお残りになることでしょう。もし族長様が倒されるようなことにでもなれば、私達はどうしたらよいものかと、心配しております」

家老は頷きました。「狐子さんは、『こんな状況だから、一人で部屋から出たりするなよ。もし私もお父様も八狐どのもいない場合は、部屋の中に残っていなさい』と言いました。八狐どのの意見は?」

「もちろん賛成です。族長を倒せない奴は、代わりに嫌いな人間に悪戯するかもしれません」と八狐が答えた後、二人は姫の家へ向かって歩き続けました。

第六十九章

姫の話

家老が家に着いて中に入ると、姫はその中で待っていました。「おばさま、おはようございます。恐れながら、お聞きしたい事がございます」と家老は言いました。姫が頷くと、「おばさまはどうして人間とご結婚なさったのですか。狐子さんのように人間に興味がおありになったのか、それとも何か他に理由がおありだったのですか」と聞きました。

しばらくの後、姫は溜息をつきました。「この事は弟にさえ話していなかったのですが、あなたにも関係のある事なので、この際、良い機会ですから、お話ししておきます」

「当時の私は今の狐子よりは少しだけ年上だったでしょうね。人間には興味がなかった頃のことです。実を言うと、人間に会うたび嫌な感じがして、できるだけ早く離れるようにしていたのです」と、話し始めました。

「あの時まではね…」

「ある日、森の中の道中でのことですが、ふいに視界が開けました。そこには日本刀を携えている男がいました。彼は影と戦うように踊っていました。すぐに立ち去ろうと思いましたが、まるで見入られたかのごとく、その剣の動きから視線をそらすことができなかったのです」

「彼の周囲には呪いの気配もなく、また、私がどのくらいぼんやりと立っていたかも分からないのですが、気が付くと、彼は剣を鞘に納めているところでした。今思うと、あれが、呪いの解けた瞬間だったのかもしれません。すぐさま私は逃げましたが、背後から『誰ぞおったか?』と言う声が聞こえました」

「その夜、夢を見ました。刀だけが夢の中でただ踊っていました。歩いている内に、度々無意識にその場所に戻って行ってしまうことがありました。何度か足を運ぶと、またあの男がそこにいました。今度は刀ではなく、なぎなたと踊っていました」

「その時もまた、彼の動きから目を離せませんでした。しかし、彼が踊り終わるや否や、私はその場を離れました。その夜も、踊っている武器の夢を見ました」

「数週間、同じような状態が繰り返されました。いつも、男は違った武器を使っていました。だんだん、武器よりもその男の夢を見るようになりました。男は、私にとって異質のものというより、親しい者になっていきました。だんだん、彼に会いたいと思っている自分のことを自覚するようになりました」

「ある日、彼が踊り終わると、私は逃げる代わりにこの姿に化けて、木の後ろから姿を見せました。私は人間のことがあまり分かりませんでした。それまでに見た、一番綺麗な着物を着ることにしました」

「私を見ると、彼は膝をついて、『姫様』と言いました。私は、『何をおっしゃるのですか。私は姫などではございません。ただの、普通の女でございます』と答えましたが、彼は立ち上がりませんでした。『そのようなことは私には信じられません。あなた様はお姿も、お召し物も、話し方も姫君のようでいらっしゃいます』と彼は言い立てました」

「しばらくの間、彼に何を言えば良いのか分かりませんでした。やっと、『どうして度々こちらで武器と踊っておられるのですか』と聞きました。彼は驚いたように目を私に向けました。『踊っていたのではありません。ただ武器の練習をしているのです。下手ですから、誰もいないところで練習するのです』と言いました」

「『とんでもないことです!そんなに優美な動きを「下手」だなんて!それを見ていると、ついいつまでも見ていたいと思ってしまいます』と私は言いました。「先生を失望させたくありませんので、こちらで練習していたのです。このように下手な練習をあなた様にお見せしてしまった不埒をお許しください』と彼は言いました」

「『それでも、私はあなたの練習が見たいので、ここに来ることを許してください』と私が言うと、彼はようやく頷きました。

「翌日、私がその場所に着き、人間の姿に化けると、すでにそこには草の上に布団が広げてありました。私は木の間から出てその辺りで躊躇っていると、男は布団を示しながら『どうぞそちらでお足を楽になさってください』と促しました。そして、彼はその日の練習を始めました。それが終わると、彼は私の側に座る許しを請い、私がそれを許したので、しばらく語り合いました」

「数週間、同じことが繰り返されました。練習後の会話はだんだん長くなりました。ある日、住んでいる村を私に見せたいと彼は言いました。その時はお断りしましたが、その後も、彼はその申し出を繰り返しました。とうとう、不安もありましたが、私は応じました」

「その日、彼が帰るとき、私は彼と一緒でした。私は、生まれて初めて、人間の村に入ったのです。そしてまた、その時までそれほど多くの人間に会ったことはありませんでした。彼以外の人間に会うと、まだ嫌な感じがしましたが、彼が私の側にいれば安心でした」

「家に着き、彼の家族に会いました。彼らに対しても嫌な感じがしました。しかし彼の妹の一人は嫌な感じがしませんでした」

「その妹以外は、私のことを嫌がっていました。それでも、その家族も私もお互いに丁寧に挨拶ができました」

「できるだけ早く去らなければと思っている時、その妹が台所から湯を持ってきました。お茶を淹れて私に茶碗を渡しました。お茶を一口飲むと、あっという間に嫌な感じが消えました。おまじないかと思いましたが、おまじないの気配はありませんでした」

「『素晴らしい』と言って、私は彼の父親に茶碗を渡しました。皆がお茶を飲み終わるころには、部屋の中の雰囲気はずっと心地良いものになっていました」

「彼が父親に徐々に切り出しました。『お父さん、この女の人と結婚したいんだよ』と言うと、『何だって!』と両親と私は同時に言いました。鼓動がドクンと脈打ちました。胸の奥から、『私もしたい』という小さな声が聞こえました」

「『息子や、このお嬢さんの家系は一体どこなんだろう?二人が毎日会っているのなら、お嬢さんはこの近くに住んでいるに違いない。しかし、この辺りの人々を全員知っているこの俺でも、今までこのお嬢さんに会ったことはなかった」

「『危ない!』と思いました。私は人間ではない――私は狐だ――と気付かれたくなかったのです。そう考えると、すぐに『ごめん』と呟きながら質問を忘れさせる呪いをかけました」

「そしてできるだけ早く失礼のないように立ち去りました。次の日、彼の修行を見ながら、彼が少し下手になったように感じました。呪いが彼の腕を鈍らせたのだと思いました」

「その日、練習の後に話し合って、彼と結婚することを承諾しました。でも、実家に住みたくないと言いました。結婚する前に、自分の家を手に入れなければならないと思いました。『しかし、それは駄目だよ。結婚した子供が歳取った親と住んで、彼らのお世話をしてあげるのが親孝行なのだ』と彼は答えました」

「それを聞くと、心が愛でいっぱいになりました。この人と結婚しなければならない!それでも、愛より悩みが勝ったのです。ですから、やめろと言う心の囁きを無視して、また呪いをかけました。今度は私に同意させるための呪いでした」

「そうして、しばらくして彼は自分の家を手に入れて、私と結婚してくれました。嬉しかったのですが、残念ながら間もなく夫婦の間に諍いが起きるようになりました。私と一緒に出かけるかとか、綺麗な着物を買ってくれるかとかいったような些細な事でも、すぐに私の言う通りにしてくれないと、また呪いました」

「そのように呪いが呪いの上に積み重なりました。武器の腕前はだんだん落ちていきました。ようやく村人も彼の様子がおかしいと気付いて、病気にでもなったのかと尋ねました」

「突然、殿からの使者が来ました。戦だから、侍は全員城に集まれと言いました。こんな状況では、行ってはいけないと私は言いました。務めだから、行かないわけにはいかないと彼は答えました」

「私はまた彼を呪おうとしましたが、何も起りませんでした。彼の忠誠心は私の力より強いのだと思いました。彼が行かなければならないのなら、その前に、前に掛けた呪いを解くべきだと思いました。すぐに呪いを解こうと思いましたが、何一つ解くことができませんでした。どうやら私の力が封じられているようでした」

「泣きながら、彼の出陣を見送りました。彼が戦死したら、私のせいに違いありません。どうして、どうして力が封じられているのかと思いながら、その頃痛くなった胸を軽く摩りました」

「胸を摩っていると、ピンとわけに気付きました。痛くなったというのは私が身籠っているからでした。牝狐が身重になると、赤ん坊を守るために、産むまでほとんどの力が封じられるのです。そういうわけで、呪うことも呪いを解くこともできませんでした」

「彼が無事で帰ってくるように祈って、来る日も来る日も待ちました。しかし、彼が帰ってくることはありませんでした。それは私のせいに違いないと悟りました」

「その後の数週間のことはあまり覚えていません。我に返ると、彼の実家に来ていました。どうしてよいか分からないまま、そこに住み続きました」

「生きていたくありませんでした。でも、彼の子のために生き延びなくてはいけませんでした」

「そこに残りたくありませんでした。でも、彼の子のために残らなくてはいけませんでした。人間の子供を狐達と一緒に育てるわけにはいきません。私が愛している夫を何回も呪ったのですから、人間を好きではない狐達は、この子をその何倍も厳しく呪うだろうと考えずにはいられませんでした。ですから、私の実家に戻ってこの子を育てることなどできませんでした」

「しかし、人間の世界に残って呪わずに子を育てられる自信はもうありませんでした。この子の世話を彼の両親に任せる他はありませんでした」

「この子から離れたくありませんでした。でも、離れないで済む方法も思いつきませんでした」

「そんな葛藤で押しつぶされそうになりながらお腹が大きくなる日々を過ごしました。ようやく、出産の日が来ました」

「産む痛みより子から離れなければならないことは何倍も切なかったです。それでも、離れるために産まれた子を見るのも触れるのも拒みました」

「産むと、力の封印が解けました。でも、私が狐であるとばれたくありませんでした。それで、夜中まで待って、こっそりと家を出ていって、わざと川まで足跡を残しました。そして、本当の姿に戻って、こちらへ帰ってきました」

「でも、心の不安を抱えたまま実家に戻ることなどできませんでした。ですから、こちらはただ彼と一緒に住んでいた家の思い出のための再現です。本物の住処は外で掘られているのです」

「弟のおかげで、一度も会うことの叶わなかった娘と孫の生と死を知らせてもらいました。全ては私のせいに違いありません。天罰ですもの」と姫は言って、泣き出しました。

「まあまあ」と家老は声をかけました。「おばさまがご主人を傷つけなかったとは言えないが、侍の妻の悪事のせいで国が滅んで殿が二人倒されたわけではないでしょう。これほど倹しく暮らしている今のおばさまが、そんな我がままな嫁と同じ人とは思えません。いつも元気なご子孫のゆき様を訪ねた方がいいと思います。そろそろ跡継ぎがお産まれになるので、こちらに来たくとも来れませんでした」

姫は泣きながら家老を抱き締めました。「そんなことはできません。そんなわけには参りません」と何度も繰り返してしくしく泣きました。

家老は姫の背中を撫でました。「いいえ、きっとできますよ。行った方がいいですよ」と慰めました。

姫が泣き伏している間中、家老はずっと彼女の背中を撫でてやりました。姫が泣き終わってやっと、その話は終わり告げたのでした。

第七十章

狐との決戦

その夜、家老はなぜか目を覚ましました。どうしたのかと思っていると、悲鳴が聞こえました。

「やめて!誰か、助けて!」狐子さんの声かと家老が思った瞬間、部屋の外へ向かって走り出していました。

部屋の外のどこにも狐子の姿は見当りませんでした。狐の群が部屋の出口を取り囲んでいました。家老が足を止めて背後を振り返ると、もうそのには出口への道を遮る狐の姿がありました。

「狐子さん!どこだ?無事か?」と家老は呼びかけました。

狐達は弾けるようにあざ笑いました。「狐子めはここにいないぞ」と言う声が聞こえました。

「でも、たったいま狐子さんの声が聞こえました」と家老が言うと、またもや狐達はどっと笑い転げました。

「これか?『助けて!』」再び狐子のものと思われる声が聞こえました。「それは我々一族の名誉を汚す人間の貴様を誘き寄せる餌だったんだぞ。そんなにも簡単な呪いで、貴様をその強い呪いで固く守られている部屋から誘き出せようとはな」

家老は辺りを見回しました。(危ない!それほど狐が多くては、勝ち目はない!)と思い、あっと言う間に狐と遣り合う計略を思いつきました。

「やれやれ。お前ら、怯えているみたいだな。人間がそれほど怖いのか?武器もなく防具もない人間を一人倒すために、二十数匹の狐が要るのか?」と言って、腕組みして、首を傾げました。「それとも、俺みたいな汚れた生き物と一対一で戦うことはしたくないのか?」

家老が言うと、狐が一匹円陣の中に進み出ました。「黙れ、人間め!俺一人だけで百頭ほどの人間と戦っても、当然俺様の勝利だぞ。貴様が従姉をたらしこんだり伯母上を泣かしたりすることが許せない!」と言って、三本の尻尾を振り回しました。

「何を!誰かをたらしこんだ覚えはないぞ!狐子さんのことを言うなら、俺に出会う前から人間の世界に興味があったのだそうだ。俺より人間の世界が好きなだけだ。おばさまのことなら、質問を一つしただけだ。お前らに怨まれる覚はない」と家老は言って、構えました。

「嘘をつくな!貴様のようなものが伯母上を『おばさま』と呼ぶとは許せない!くらえ!」と狐は言って、家老の喉へ向かって跳んできました。

(速い!速すぎる!)と家老は思って、横へ身を躱し、狐の体を掴みかかりましたが、握ったのは数本の毛だけでした。相手に振り返ると、右腕に火で焼かれたような感じがあって、何か温かいものが流れているのに気がつきました。――血でした。

また相手が駆けてきて、また躱そうとしましたが、左足が動きませんでした。足が動けなくて、家老は地に転がり落ちました。「何だ、これは?」と言って、動かない足を見ると、草が足の回りに纏わり付けていることに気付きました。――呪っているに違いありません。

家老がどうにか立ち上がって、相手の行方を確かめるために見回すと、背後にいました。どうにか身をぎこちなく回して相手に向かうと、相手はもうそこから消えていました。後ろへ振り返ろうとしましたが、今度は、両足が動きませんでした。見下ろすと、草はもう左足は膝までも、そして右足は足首までも縛っていました。

突然、何か重たいものが背後から肩の間に当たり、家老を前へ倒しました。足が動かないから、腰をかがめ手で転倒を食い止めました。

目の前の草が両手へと伸びて来ました。立ち上がろうとすると、何か重たい物が背中の上に伸しかかりました。背中の上に狐が立っていました。

もはや草は両手の回りで縛り付いていました。指一本さえ動かせませんでした。「狐子さん、ごめんなさい。部屋を出るなと言ったのに…」と叫びました。

相手は背中から飛び降りました。「黙れ、人間め!狐の名を汚すな!」と言いました。

「狐子さんのことを汚そうなどとは全く思っていない」と家老が言うと、「まだ汚そうとするのか?死ね!」と相手は答え、たくさんの白い鋭利な牙が鋭く光る口を広く開きました。

(もうだめだ。何もできない。狐子さんといたいのに、ここで死ぬに違いない)と思って、頭を垂れて、目を閉じて、牙の感触を待ち受けました。

第七十一章

狐子の勝負

突然、聞き慣れた声が聞こえました。「やめて!彼の髪の毛一本にでも触れたら、決して許さないから!」狐子が来たに違いありません。

声の方へ目を向けると、家老を取り囲む狐の群れに向かって歩いてくる四本の尻尾の狐が見えました。

(四本もの尻尾!?最近新たに三本目を与えられたばかりじゃなかったか?あれは本当に狐子なのだろうか?)と家老は思っていると、狐の群れは狐子に道を開けるように下がり、狐子が中に入ると、再び周りを囲みました。

狐子は家老の傍らに行くと、前足で地面を叩きました。あっという間に、手足を縛っている草は茶色に変わり、地面へ落ちました。

「部屋に戻った方がいい」と、狐子は相手に向き直りながら言いました。

家老は部屋の方へ向き、その入り口の前にいる狐を不安そうに一瞥しました。「しかし…」

闇の中から声が聞こえてきました。「心配しないで、お客様は私に任せてください」と言う声がしました。彼を囲んでいた狐たちは、彼に向かって歩いてくる声の主を一目見ると、引き下がってゆきました。八狐でした。「こちらへ来てください」

家老は狐子を物問いたげに見ました。「しかし…」

「狐子様のことでしたら心配ご無用でございます。あの方なら従弟とのお遊びにも付き合えるでしょう。でも、そういう遊び方は人間には危ないのです。こちらへどうぞ」

家老が八狐に近付くと、「私の隣に座ってください。この勝負が見たくないのなら、部屋に戻ってもよろしいですが、勝負が終わるまで、決して狐子達には近づかないでください」と八狐は言いました。

それから家老は八狐の横に座って、狐子へ視線を向けました。

狐子は一歩ずつ相手ににじり寄りました。「愚か者!父上の『人間の客人に手出すな』という簡単な教えすら守れないの?それとも、何をしてはいけないかが分からないほどの空け者なの?」

「何も分かっていないのはお前のほうだぞ。いつもいつも人間の世界に入り浸り、家族の状態が分からなくなりやがったに違いない。父親が族長であるおかげでこの数ヶ月の内に位が上がり、尻尾が二本さらに与えられたけれど、お前の父親は家族が人間の中に混じっているせいで落ちぶれ、倒されるのも時間の問題だろう。だから、お前はもう父親の守護には頼れない。尻尾が四本といっても、人間と長く暮らしていたような奴は、俺様ほどの呪力はもはやないだろう」

「本気でそう思っているの?あんた、子供の頃からあんたと勝負をすると、いつも私の勝利だった。今だってそうでしょうよ。あんた程度相手、誰の手助けも要らない。まして父上の手を煩わす必要なんて。実力を比べましょう。かかってきなさい。来ないならこっちから行くわよ」と言うと、狐子はもう一歩従弟の方へ進み寄りました。

突然、狐子の周りにある草が人間の高さほどに伸び、狐子を掴もうとするかのように彼女の方へ伸びてきました。でも、狐子に触れる前に、草の動きは止まって、相手の方へ向かっていきました。あっという間に、草は茶色に変わり、地面に落ちました。

狐子はまた従弟の方へ一歩、にじり寄りました。

すると、強い風が吹き始めました。暗い空から旋風が狐子に向かって吹いてきました。しかし、狐子に届く前に、旋風は相手の方に向きを変えました。あっという間に、旋風も消えて辺りは静まりました。

また狐子は一歩従弟に近付きました。

次は、狐子の周りに火柱が噴き出し、狐子の姿を隠しました。突然、炎は相手の方まで広がって、焦げた毛の臭いがしました。

「狐子さん!」と家老が言って、立ち上がろうとすると、八狐は袖を掴んで、家老を止めました。「邪魔をしてはいけません。ここで見守り、狐子様を信じなさい」

家老が座ってまた狐子達に視線を向けると、炎はすでに消えていました。狐子の様子には変化がなく、しかし相手の毛はあちこち黒く焦げました。また狐子が一歩進むと、今度は相手が一歩後ろへ退きました。

次から次へ呪文の攻撃が狐子を襲いました。狐子が歩み寄る度に、攻撃は相手の方向に歪んで、呪文は取り消されました。その都度、狐子は一歩進み、相手は後ろへ退きました。ついに、相手は円陣の縁に追い詰められ、もう一歩も退けなくなりました。

鼻と鼻が触れ合う所まで追いつめられ、従弟は仰向けに倒れました。「畜生!また、お前の勝ちだ。好きにしろ」

「一つだけ聞きたいことがある。誰が父上を倒すと思っている?」と狐子は言いました。

「伯母姫だ。誰もがそう言っている。伯母姫は以前人間に浚われたから、人間のことが嫌いだ。だから、人間に関わっている族長を倒したいんだ」

狐子はしばらく呆然と座っていましたが、それから急に仰向けに転がったかと思うと、ぴくぴく震えながら、妙な声を出し始めました。

「狐子さん!大丈夫ですか?」と家老は呼びかけ、狐子のところに走っていきました。そこに着くと、狐子は笑い転げていたのだと気付きました。

少しずつ笑いは治まり、やっとまた話せるようになりました。「狐一君、あんたは本当に狐界一の間抜けだよ。伯母姫が父上を倒したいなんて、人間に浚われたなんて、そんなことはありえないよ」と言うと、人間の姿に化けて、家老に手を取られて立ち上がりました。

「しかし、誰もがそう言っているよ」と狐一は抗議しました。

「そんなことなら、誰も伯母姫の秘密を知らないからだ」と狐子は答えました。「私は一部しか知らないが、それはありえないと分かるよ」

「そうですとも」闇の中から声がしました。声の方を向くと、二つの姿が円陣に近付いてくるのがぼんやり見えました。「弟が昔から私に言っている通り、秘密を伝えた方がよさそうです。明日、全一族の評議をしましょうか?そこで、私の人間との間で犯した罪を皆に明らかにします」そう言ったのは尻尾を八本持つ狐でした。姫だったのでしょう。

「よし。明日の昼でいい。狐一君、お前をどうしてやったらいいのか分からない」姫の供人は尻尾を七本持っていました。族長に違いありませんでした。

「人間の世界を経験させた方がいいでしょうか?」と姫は尋ねました。

「そうかもしれない。しかし、見張りが必要だな…。狐子や、ゆき殿のところに戻る時、狐一も一緒に連れて行くのだ。ゆき殿夫婦が許せば、そこで一年間預かってほしい」

狐子ははっと息を飲みました。「お父さん、それは大変!この間抜けは人間の城などへ行ったら、問題を起こすことしかしないでしょう」

狐一も声を上げました。「問題を起こすのはこの人間好きな尻の軽い雌狐めだろう!こんな奴と一緒に行くなんて、冗談じゃない!」

「これは族長としての命令だ。この一族の人間に対しての憎しみを途絶えさせたい。私たち一族の敵はあの国の人間じゃない。この一族にも人間の国にとっても、敵は妖怪なんだ。それで、手始めにお前が人間に慣れて、人間の風俗習慣を習ってもらいたい。分かったな!?」

「あ、は、はい、族長様」と狐一は従順に答えました。

「分かりました、お父様」と狐子は力強く答えました。

第七十二章

若殿との茶席

一方、ゆきは、若殿の父親がやってくるので、その準備を取り仕切っていました。

日が沈んだ後、ゆきは部屋に戻って、寝台に横になりました。

「お疲れ様でございます。おそれながら、今晩のお茶のお客様がもうそろそろいらっしゃるかと思います。お召し替えをお手伝いいたしましょうか」と女将は訊ねました。

「ああ、もう、本当に疲れてしまったわ。今晩、ゆっくり休みたい」とゆきは大きく溜め息を吐きました。「全てを揃えることがこれほど難しいとは思わなかったわ。座席に座っているだけだと思っていたのに、一日中城のあちこちに行って、人に会い、必要なものが全て揃っていることを確認しなければならなかったわ。何か足りないものがあると、どうやって手に入れたらいいのか、他に何かその代わりに使えるものがあるかどうかを尋ねなければならなかった。その間中ずっと赤ちゃんがお腹を蹴っている」

「今晩のお客様はお断りにならないのではないかと存じます」と女将は答えました。

「え?誰かしら」とゆきが言うと、女将は単に「秘密です。もうすぐお分かりになります」と答えました。

ゆきは、客は訝しく思いながら身を起こすと、女将に手伝わせて茶会用の着物に袖を通しました。そして、ゆっくりと道具を整え始めました。

突然、後ろから声が聞こえました。「二人で茶席を楽しむのは久しぶりだな」ゆきが振り返ると、若殿が隣子を開けて戸口に立っていました。

「あなたが今晩のお客様ですか」とゆきは驚いたように尋ねると、「違う。今日はお前の番だよ。上座に座りなさい。俺が点前をみせる。お前ほど上手ではないが」と若殿は答えました。

ゆきが座っていることを確認すると、若殿はお点前を披露しました。

ゆきがお茶を飲んでから、若殿は、「なんでそんな身重の体で城の見回りなどしておるのだ?家老の家来どねを信じないのか?」と尋ねました。

「信じています。ただ…茶席で会ってはいても、誰がどこで何をしているのかは知らないから」とゆきは答えました。

「やめるべきだ。お前のような目上の者が自ら配下どもの持ち場に行けば、皆が働きにくくなるだろう。それに、そんなに長い間自分の席を離れていると、机の上に山ほどの報告、雑務で溢れ返ることになる。それを理解した上で彼らを扱うのが、我々の本当の仕事なんだよ」と若殿は説明しました。「誰がどこで何かをしているかなんて、知る必要はない。結果があれば充分だ。実務は家来たちに任せろ」

「なるほど。でも、報告書を読むだけでは、それが真実かどうかかどうして分かりましょう?」とゆきは答えました。

「それは難しい。残念なことに、主が聞きたいと思っていることしか報告しない家来が多すぎる。報告書をちゃんと読み、そして、その報告をする家来とよく相談し、できるだけ状況を確認すべきだ。そうすれば、嘘が分かるかもしれない。真相が分かれば、できるだけその嘘はその家来によるものなのか、彼の部下からなのものなのかを確認しなければならない。嘘の程度に応じて罰を与える」と若殿は説明しました。

「なるほど。それならば、どうして私と一緒にこの国を旅したの?その間、そういう報告が山ほど机にあったでしょう?」とゆきは尋ねました。

若者は顔を赤らめて、俯きました。しばらくすると、頭を上げて、「理由とえば、一つにはこの国を個人的に知りたかったこと。もう一つは新しい家老の能力を試したかったこと。残りは嫁ともっと親しくなりたかったからだ」

ゆきも頬を赤らめました。「そうなんですか?あっ!蹴ってる!分かりますか?」というと、若殿の手を取って、お腹に優しく押しつけました。

障子の外に座って二人の話を聞いていた女将は、今夜茶席を設けて本当に良かったと思い、にっこりと微笑みました。

第七十三章

城へ戻る

次の日から、ゆきは若殿の勧め従うように努めめました。報告書を読んだり、家来と若殿と評議をしたり、家来がしていることよりも、むしろまだしていないことを考えようとしたりしました。

数日後、家老たちが城に戻りました。家老達はすぐにゆきと若殿のもとに参上しましたが、その中には見知らぬ若者の姿もありました。

「狐子、本当にこんな姿をしなきゃならないのか?服を着るのが嫌だ。あちこちに痒くなってしまってしまうからな」と若者は尻を掻いて言いました。

「狐一のバカ!この国ではこのお方の位が一番お偉いのですよ!丁寧にしなさい!」と狐子は従弟に呟いてから、若殿に向かって会釈をしました。「お殿様、こちらは私の従弟なのでございます。お殿様がお許しくだされば、一年ほど彼をこちらでご奉公させて頂いて、人間のことを少しでも習うようにと私どもの族長は望んでおります。よろしくお願いいたします」そしてまた狐一に振り返って、促すように目配せしました。

「俺は」と狐一は始めると、狐子の視線で刺されたかのように口を止めました。「あ、いや、丁寧に、分かった」と呟いた後で、再び自己紹介を始めました。「僕は狐一と申します。よろしくお願いします」と言って、軽く一礼をしました。

「従弟をお許しください。まだ人間の習慣があまり分からないのです」と狐子は謝りました。

「やれやれ。従弟と申すのだな。ゆき殿もか?」と若殿は言って、顎を撫でました。狐子が頷くと、若殿は続けました。「ゆき殿が家族がないというのに、縁者はどんどん増やしているようだな。狐をだよね?」狐子はまた頷きました。「よし、その狐一とかいう者に職を与えることは家老に任せる」

家老は傷ついた腕を撫でました。「何か適当な職を考えます」と言いました。

狐一は唾を呑みました。「姉さん、どうしよう?あいつは何か嫌な職に就かせるに違いない」と狐子に言いました。

「構わない。そうなるのは、自業自得じゃない?」と狐子は言って、狐一に背を向け、ゆきと喋り始めました。

琵琶法師がにっこりと微笑み、そっとその光景を記憶の中に留めました。なんと面白い話に成り行きだろう、と思いました。

第七十四章

狐一と下女

家老は狐一に琵琶法師と同じ部屋を宛がい、「明日、朝一番で、私の執務室に来なさい」と告げるや、あたかももう去れとでも言いたげに狐一に背を向けたのでした。

それから琵琶法師は狐一を部屋に連れて行きました。部屋に入るとすぐに、狐一は自分の姿に戻って、布団の上に横になり、尻尾を鼻に巻き付けました。「ああ、気持ちいい!服なんかよりも、自分の毛の方が温かい。それに、俺のは人間の服みたいにむずむず痒くないぞ」と言いました。

「人間の姿でいるべきです」と琵琶法師が言うと、狐一は唸るように答えました。「貴様!我が一族以外の者で、ましてや年下の狐がこの俺に命じるなどとは!」

「今は一族の谷にいるのではありません。人間の世界にいるのなら、この世界で自分より経験がある者は先輩だと考えるべきですか」と琵琶法師が説明しようとすると、狐一はただ、「うるさい」と唸りました。

それと同時に、まだ開いている障子から「きゃあ!獣が!獣が城の中に!」という悲鳴が聞こえました。琵琶法師が戸の方を振り返ると、そこで落ちた布団の後ろに立ち尽くす下女の姿がありました。

琵琶法師は彼女に近寄って、胸に抱きました。「まあ、まあ、怖くないよ」という呪術に混ぜた言葉で下女に落ち着かせようとしましたが、狐一は「誰が怖くないかいって?俺は怖いぞ」と唸りました。

「きゃあ!あれ?話せるの?」琵琶法師の腕越しに下女は狐一を覗きました。「狐ですか?可愛い!撫でてもいいですか?」と言って、琵琶法師を見上げました。

「うるさい!誰が可愛いものか?狐を撫でたいなら、そいつを撫でろ」と狐一は唸りました。

下女は辺りを見回しました。「何?そいつって誰のこと?他に狐なんていませんよ」

「馬鹿者め!お前を抱いている者は狐だと知らないのか?」

「何?琵琶法師さんはどこから見ても人間ですよ。狐子様は狐だという噂がありますけど…」

琵琶法師は下女を放しました。「私が狐だということはゆき様達以外、この城の者には秘密にしておきたたかったですが、事実です」と言うと、本来の姿に戻って、しばらくするとまた人間に化けました。

「この目で見ても、なかなか信じられことですもの。あの…家老さまがここには布団がもう一組必要だとおしゃったので、これを持ってきました」と下女は言うと、一礼してから落ちた布団を取り、寝台に広げました。布団を広げながら、下女はこっそりと狐一の毛を撫でました。「わあ!とても柔らかい!」と言うと、狐一はただ「うるさい」とだけ答え、目を閉じました。しばらくすると、狐一は「右へだ。いや、そこじゃない。もっと前だ。そこだ、そこを掻け」と言って、楽しんでいる様子を見せました。

間もなく、下女は立ち上がりました。「まだ仕事がありますからそろそろ行かなくては。ええと、狐さま、行く前に、名前を教えていただけませんか」と尋ねました。

「狐一だ」と言うと、彼女は「初めまして、こいち様。私は広子と申します。よろしくお願いいたします」と言って、一礼をしました。それから、「お邪魔しました」と、立ち去りました。

「もう人間と仲良くなっていますね」と琵琶法師が言うと、狐一はまた「うるさい」と答えました。

第七十五章

新しい着物

次の朝早く、廊下から声が聞こえました。「ごめんください。狐一さまのお着物を持ってきました」

琵琶法師は、少し待つように言いながら、自分を急いで着替え、狐一に人間の姿になるよう促し、そしてすぐに障子を開けました。そこには着物を手にした広子がいました。

「どうぞこれをお召しください」と立ち上がって、それを琵琶法師に手渡すと、後ろに立っている狐一の方をちらりと見ました。「あなたは人間のお姿をした狐一様でしょうか。素敵!凛々しい!あの、狐一さま、お着替えが終わりましたら、ご家老の執務室にお連れします」

琵琶法師は着物を広げて、顔を赤くした狐一に見せました。「これは少し小さすぎるかもしれませんね」

「うるさい」と言すと、狐一は広子の目の前でその着物姿に化けました。もちろん、化けた着物はちょうどいい大きさに変わっていました。

「まあ!私もそんなに簡単に着替えができたらいいのに!」と手を胸の前に当てて広子は叫びました。「じゃ、ご家老のところに参りましょう」狐一の手を取ると、部屋から出て行きました。

二人の姿が消えるまでに、琵琶法師はあっけにとられて彼らを眺めていました。そして、首を振りながら、「昨夜のまじないが効きすぎたかな」と呟きました。

第七十六章

新しい仕事

家老の執務室へと歩きながら、広子は途切れることなく狐一に喋り続けました。狐一の繰り返し発した「うるさい」という言葉が聞こえなかいかのよう顔をしている広子はは途中ですれ違った者の皆のことを噂しました。

狐一のと同じような服を着ている者は全員十二、三歳の少年で、「小姓」といった印象を広子に与えました。

狐一にとって永遠と思われるほどの長い時間が経った後、ようやく家老の執務室に着きました。「家老殿のおっしゃる通り狐一様をこちらにお連れ致しました」と広子は告げました。

「広子さま、小姓の名に『さま』などつけてはならませぬ」と家老が言うと、「でもね、この方は狐ですよね?狐は神様の使者ですから、『さま』をつけてもいいのではありませんか」と広子は答えました。

「待った!この俺が小姓だと!?一体どういう意味なのだ?」と狐一は腹が立てたように叫びました。

家老は広子を見やりました。「狐一くんは狐であっても、今ここにいる理由は神様とは関係はない。普通の小姓として扱いなさい」と言って、視線を狐一の方へ向けました。「お前は、今、狐の谷にいるのではない。族長様の命令はここで遊べということではなかったはずだ。ここにいる者の言うことに従え、人間に習えということだ。普通に、城で仕え始めた子供が小姓になり、働きながら城のことなどを習っていくのだ。しかし、お前はそういう子供よりいくつも年上であるにも関わらず、初心者の小姓よりもこちらのことを分かっていないのだ。だから、一応、小姓として働いてもらいたい。小姓の務めが充分できたのなら、他の役目を与えるだろう」

家老は狐一をしっからと見据えました。「最も大事な用件は、目上の者への振舞い方を正すことだ。初心者のお前にとって、この城の全ての者が目上であると考えるべきだ。もうすぐ我が殿のお父上さま―つまり、隣の国の大名―がお越しになる。無礼が我々を困らせることなどあってほしくはない。分かったか?」

「分かった、わか…」狐一は突然、口籠もり、目を伏せました。「分かりました。頑張ります」

「ふむ。初心者だから、城内のことがよく分かるまで、誰かが指導すべきだろう。広子さん、今日は何か大事な用事はあるか?」

「ありません」

「よし。今日はそいつを指導するように」と、家老は筆と紙を取って、何かを書き始めました。

広子は躍り上がらんばかりの喜びようでした。「わーい!狐一君と一緒に働けて、嬉しい!ありがとうございます」

狐一は慌てて広子を見ました。「この口煩い少女の側にいるなんて、僕は罰を受ているのですか?腕を傷つけたことの?」

「谷で起こったこととは関係ない」家老は紙を狐一に差し出しました。「いいか、これを台所に持って行ってこい。まだ食事をしていないのなら、戻る前に朝食にしてもいい」

「はい、了解しました」と言うと、狐一は広子と共に事務室を出て行きました。

二人が消えた後、家老は少しの間、入り口を眺めていました。それから、誰もいないはずの部屋に向かって、こう言いました。「お前、どう思う?あいつは予想より大人しかったね」

机の下から鼠が出てきて、赤毛の女の姿に化けました。「そうよ。もしかして、伯母さんの話のせいかもしれない。それとも、ここに味方がいないからそう風に振る舞っているかもしれない。結局、あなたに対して反抗する気はあまりなさそうだ。ところで、あの広子という娘は面白いのよ。狐が好きだなんて思わなかった。この前に、猫を見ただけでも怖がっていたのに。どうして狐が好きになったのだろう?狐一の奴のせいじゃないみたいね。人間の姿をしている狐だけが好きのかしら?調べてみる。それじゃ」というと、猫の姿に化けて、部屋を出て行きました。

家老はただ首を横に振るばかりした。「狐や女なんてさっぱり分からない」と呟き、報告書を手に取って、読み始めました。

第七十七章

広子と小猫

その日は一日中、城のあちらこちらで狐一は広子と共にちょっとした使いに言いつけられました。その間、広子は辺りの人や場所について切れ目なく話し続けました。当初、狐一は広子の話を聞き流していましたが、次から次へと使いをやらされると、広子が前もって教えてくれた人や場所に用事を言いつけられることに、だんだん気がついてきました。そして、耳を澄まして、広子の話していることに注意を向け始めました。

ある使いの途中、二人が角を曲がると、広子は突然狐一の腕に飛び込みました。「いや!助けて!野獣が!」と叫びました。

広子を抱き抱えて、狐一は足元でニャンニャンと鳴く小猫を見下ろしました。野獣といっても、小猫がいるだけでした。

「アレが怖い野獣なのか!?あの小さなものがか?」

「いや!小さい大きいの問題じゃないない!早く追い払って!」広子は狐一に泣きついて彼の肩に顔を埋めました。

「さすがは広子ちゃん!」広子の悲鳴に反応しているように廊下に駆け出した者は皆くすくすと笑いました。

広子の温もり、柔らかさ、とりわけ彼女の女性らしい匂いにふと気付いて、狐一は頬を赤く染めました。「おい!お前!あっちへ行け!」と言いながら足先で小猫を軽く叩きました。そると小猫は欠伸をしながらゆっくりと立ち上がって歩ると、どこかへ歩いていってしまいました。

小猫が消えると、広子はようやく狐一の腕から離れて、狐一へ向かって、深く頭を下げました。「ありがとうございます。助かりました」

「とんでもない!そんなやつ、危険なはずもない!」

「だって、怖いんだもの。助かったんだってば!もう、どうして誰も私のことを分かってくれないの?」と広子は言って、逃げるように廊下を駆け出しました。

「俺が知るわけないだろう。け、女も人間も全くわけが分からん」と狐一は呟いてから、「おい、待てよ!」と叫んで、広子を追い掛けました。「何か気に障ることを言ったのなら、謝る!」

小猫が消えた所から、赤毛の顔が覗きました。「面白い。猫でさえ、まだ怖いのね」と狐子は呟きました。

第七十八章

狐子からの試し

もう一回の使い途中、広子と狐一が角を曲がると、床で寝ている狐が見えました。今すぐ、広子は狐のところに走りました。「可愛い!」と言って、狐の毛並みを撫で始めました。

「おい、危ない!そいつに噛まれるかもしれない!」と狐一は言うと、広子の側に駆け寄りました。すると、狐をよく見ました。「お前、なんでその姿を?いつも人間の姿でいたいのかと思っていたのに」

狐は赤毛の娘の姿に化けました。「あっ!狐子様、失礼いたしました。すみません」と広子は言って、深く会釈しました。

「気にしないで。問題はありません」と広子に一礼を返して、狐一に振り返りました。「この子は、気が変わったようなの。以前はどんな小さな獣を見ても、怖がっていたのよ。それは城の誰もが知っていたわ。でも、今日は狐だけが怖くないようなの。どうして?」と狐子は尋ねました。

「俺のせいじゃないよ。口を留まる呪文でさえをこの口うるさい女の人間につかなかった。昨夜、この子が悲鳴を上げた時、あの琵琶法師の奴が何かをしたかもしれない」

「まあ、もうすぐあの人と話すと思う。ところで、この城のみんなはあんたにとって目上の者を考えた方がいいと家老さんが言ったんじゃない?あんたが広子ちゃんに丁寧に話すことを聞くこと一度もない」

「畜生!なぜ狐のこの俺が人間めらに頭を下げなきゃ?伯父貴の命令は変だぞ」

「父の命令だけじゃないよ。伯母様の望みでもあるのよ。この城には血の関係のお方がいるし、伯母の間違いを繰り返さないよう、家族がこの国と関係をもっと強くなるように願っているとあんたにも分かるはずだよ。伯母様の話を聞かなかったのか?」

「ふむ。そういえば、伯母の間違いは何だったっけ?」

「間抜け!その話をまた聞く暇があるはずがないのよ。仕事を続けた方がいいよ」

そう叱られて、狐一は広子と一緒に用事をしに立ち去りました。狐子はしばらく二人を眺めて、呆れたように首を横に振りました。そして、狐一の部屋の方へ向かって小走りで歩き始めました。

第七十九章

琵琶法師の告白

間もなく、狐子は狐一たちの部屋に着きました。琵琶法師はその中にいました。彼は、大名が訪ねてきたら、どんな歌を歌うのがよいと頭を絞っているところでした。狐子が障子を開けて中に入ると、彼は机から視線を上げて、お辞儀をしました。「先生、こんにちは。今日の修行はもっと遅い時間ではないのですか。今、何か用事がありますか」

「あの広子という娘さんを知ってますか」

琵琶法師はしばらく首を傾げけて、頷きました。「ふむ。狐一さんをご家老の執務室へ連れて行った人ですか?はい、知っています」

「広子ちゃんは何かまじないがかけられてるようですが、何か知っているかしら。どんな呪いか分かりますか?」

琵琶法師は俯きました。「昨晩、狐一さんが狐の姿のままここで休んでいる時、あの娘は狐一の姿を見てしまい、悲鳴を上げたのです。彼女を落ち着かせようと、狐を恐れないようにする呪文を使ってしまいました。申し訳ありません」

「もう、どうして誰も伯母様の話にちゃんと聞いていないのかしら」と呟くと、狐子は大きな溜息をつきました。そして、厳しい視線を琵琶法師の方に向けました。「しょうがないわね。どんな呪文を使ったのかを教えなさい」

琵琶法師が呪文の種類を説明すると、狐子はまた彼を叱りました。「そんな!あんな呪術を敵でない者に使うなんて、信じられません。あれは相手の判断力を麻痺させて、しまいに命まで奪ってしまうものではありませんか。さあ、行きましょう」

「私がですか?どちらへ?」

「狐一より愚かな者になろうというの?あの娘を見つけ、術いを解きに行きますよ。これは今日の修行です。早く!」と狐子が言うと、二人は部屋を出ました。

第八十章

呪いを解く

間もなく狐子達はさっき狐子が狐一達に会った場所に着きました。すると、狐子が狐の姿に化けて、狐一達の匂いを嗅ぎ分けながら走り出したので、琵琶法師は彼女を追いかけざるを得ませんでした。

しばらくすると、二人は狐一達に追いつきました。広子は狐子に気付くと、「可愛い!狐って大好き!」と声を出し、狐子のところまで走って狐子を抱き上げました。彼女の後ろから「おい、広子さん!狐子と遊んでいる暇はないんじゃありませんか?」と言う声が聞こえました。

「うぐ!この子が私を押しつぶす前に、まじないを解きなさい!」と狐子がいうと、後ろから駆けて来る琵琶法師は広子の腕に触れました。

すると、広子は「きゃあ!」と悲鳴を上げながら倒れ、広子の腰元に投げ出された狐子は人間の姿に戻りました。広子は狐子達からできるだけ遠くへ這うように逃げて、やっと狐一の足下で止まりました。狐一の顔を見上げて、さらに高く悲鳴を上げ、廊下の壁まで這って逃げました。そこで広子は泣いて震えながら身を丸めました。「きゃあ!狐に囲まれてる!誰か、助けて!」

「お前ら、何をした?広子さんを傷つけたら、決して許さないぞ!」狐一は拳を握って狐子を睨みました。

「狐一の馬鹿!あの子にかけた呪いに気づかなかったの?琵琶法師さんはただそれを解いたの!」

「け!あれ、六ヶ月の子狐でさえ解けるんじゃない?」

「間抜け!人間が狐のまじないを解くなんて出来るはずがないでしょう?」

「ふむ。…できないのか?け、とにかくあれはあの法師とかいう野郎のせいんじゃない?」

琵琶法師は軽く咳払いしました。「先生、すみませんが、後で従弟さんと喧嘩できるのでしょうか。今は、とりあえずあの娘のことを考えましょうか」と広子を示しながら訊ねました。

第八十一章

お守り

狐一は広子に近づこうとしました。しかし、広子の「きゃあ!近づかないで!助けて!どうして、誰も助けてくれないの?」という悲鳴を聞くと、狐子の脇に下がりました。「広子さん!一日中怖がらずに一緒にいたのに、どうして今さらそんなことを?」と訊きました。

「やめておきなさい。」と狐子が言うと、狐一は彼女の方へと向かいました。「恐怖を奪うようにする呪いが解かれたから、呪いをかけている間の恐怖が一度に広子ちゃんに襲ったのよ。何を言っても無駄なの。仕方ない。呪術を使う他にこの子を落ち着かせる手はないね」

琵琶法師は声をかけました。「すみませんが、この問題が呪文のせいなら、他の呪文を使うと問題はさらに大きくならないでしょうか」

「すぐ消えるおまじないだけを使うつもりですもの。命にも意思にも影響しないで落ち着くようにするだけのおまじないなら、問題ないでしょう。ほら、見て」と言うと、二人は彼女を興味深そうに眺めました。狐子がしたことは人間の目から見ると何事も起こりませんでしたが、琵琶法師は頷き、狐一は腕を組み狐子から目を背けました。「け、そんな簡単なこと、俺ができたはずなのに」そう言っている間に、広子の悲鳴は小そくなり、やがて消えました。

まだ震えている娘に狐子は優しく訊ねました。「広子ちゃん、私どもが怖いですか」広子は首を激しく縦に振りました。「このままでいいですか」しばらくして、首は激しく横に振られ、娘は何かを呟きました。「聞こえません。近づいてもいいですか」また首は激しく横に振られましたが、ふいに止まり、軽く頷きました。できるだけ静かにゆっくりと狐子が近づくと、広子の呟きが聞こえました。「狐一君を怖いと思いたくない。可愛い獣に怖いと思いたくない。私のことを笑わないで欲しいの。怖いのが嫌なの」

「怖くなくなるように手助けをしてもいいですか」広子が微かに頷いたのを見て、狐子はゆっくりと着物の中に手を入れました。そして、首を掛ける赤い毛で作った小さい人形を取り出しました。「このお守りをかけていると、だんだん可愛い獣に慣れて、恐怖が減るでしょう。おまじないはこのお守りにかけただけです。いつでもこれを捨てて構いません。もう、このような恐怖は襲ってこないでしょう。どうか、これを受け取ってください」と狐子は言うと、人形を持った手をゆっくりと広子へ伸ばしました。広子は奪うように人形を受け取るとと、紐を首に掛けて、人形を着物の中に入れました。すると、だんだん震えが治まり、落ち着きました。

「もう、狐一の側で働くことが出来ますか」

「たぶん」広子の声は少し強くなりました。

「家老さんは待っているんでしょうね。急いだ方がいいでしょう」狐子がそう言うと、広子は頷いて、立ち上がりました。それから、何も言わずに広子は狐一と共に今の仕事を続けました。

第八十二章

家老との面会

狐一達が家老の執務室に戻ると、広子は黙って俯いたまま狐一を避けるかのように見えました。家老はすぐにそれに気づき、狐一に目を向けました。「お前、広子に何をしたんだ?」

狐一は腹が立ったように睨み返しました。「俺のせっ」と言いかけましたが、ふいに目を伏せました。「あ、いや、そんな、私は何もしていません」

広子は目を伏せたまま口を開きました。「どうか、狐一君を許してください。いい子ですよ。本当に何も悪いことなどしていません。全ては私のせいです」

家老は席から立ち上がり、広子に近づきました。「どういう意味ですか。説明しなさい」

広子は頬の涙を拭きました。「なぜか呪いが私にかかっていたようです。呪いが解かれるや否や、狐一君も狐子様も琵琶法師さんも怖い獣にしか見えなくて、私は悲鳴を上げることしか出来せませんでした。狐子様がこのお守りをくださってからは、だんだん落ち着いてきましたが、少しずつ怖さは減っているのに、まだ完全には消えません」と言って、赤毛の人形を家老に見せました。

「ふむ。あいつを城のあちこちへ案内したのだから、今日はもう下がって休んでもよい」

「でも、まだ働けますわ」

「心配は要らない。下がりなさい。明日、元気で戻れ」と家老が言うと、広子は頭を深く下げてから部屋を出ました。狐一が広子について行こうとすると、家老は「お前、どこへ行こうとしている?」と言って、彼の足を止めました。「広子に呪いをかけたのはお前なのか?」

狐一は慌てて両手を振りました。「違います!こちらだは何の呪術も使ったことがありません!姿を変えることを除いては」

「お前でなければ、誰なんだ?」

「あの法師の奴でしょう。広子さんがたまたま狐の姿のままの私を見かけて悲鳴を上げた時、あいつは何かをしたようです」

「なぜ狐の姿でいたんだ?」

「着物なんかを着ると、あちこちが痒くなり掻くことも難しくなるのでいらいらします。狐の姿の方が気持ちいいです」

「そんな姿でいるから問題が起きるのだ。痒みを減らしたかったら、湯を浴びればいいんではないか。琵琶法師を探して一緒に戻れ。狐子さんに出会ったら、こちらに来るようにと伝えてくれ」狐一が去ろうとすると、家老はまた声をかけました。「ところで、琵琶法師は城においても人間界の経験においてもお前の先輩だ。『奴』などと呼ぶな」

「あっ、はい、分かりました」と言うと、狐一は執務室を出て、廊下を歩き始めました。そして、「け、どうして悪いことが起こると、いつもみんな俺のせいだと思うんだ?」と呟きました。

第八十三章

頭痛

狐一が琵琶法師とともに執務室に戻ると、狐子は家老と話をしていました。「今度はお前が叱られる番だぞ」と低く琵琶法師に呟いてから、狐一はニヤニヤ笑いながら声を上げました。「仰せの通り、琵琶法師さんを連れて参りました」

家老は立ち上がって、琵琶法師に近づきました。「広子という娘に呪いをかけたのはお前だな。説明せよ」

「申し訳ございません。あの子が狐の姿でいた狐一さんを見て悲鳴を上げたのを見て、落ち着かせようと思わず呪術を使ってしまいました。その呪文が人間に対してそれほど危険だとは知りませんでした。狐子先生の元でもっと勉強を励みます。反省します」と言うと、琵琶法師は深く頭を下げました。

家老は二人を見回しました。「こんな事件は二度と起こさないでほしい。特に我が殿のお父上がこちらにいらっしゃっている間は、我が殿に恥ずかしい思いをさせてはならん。分かったな?」

狐一の笑みはすぐに消えました。二人は頷きました。

「だから、二人とも、通常の仕事に加え、毎日狐子さんの元で適切な振舞い方を習ってもらいたい。分かったな?」

狐一たちがまた頷くと、家老は「下がれ」と命じて、席に戻りました。二人が部屋を出ようとした時、ほとんど聞き取れないぐらいの小さな声で「け、産まれたばかりの狸の方があの女狐よりも適切な振舞い方くらい分かるだろうよ」と言うのが聞こえました。

障子が閉まると、家老は両手で頭を抱えました。「頭が痛い。あいつらに噂話をする奴らのいじめ方まで教えないでくれ」

狐子は何食わぬ顔で答えました。「あら、私がいじめ方を教えるなんて、とんでもない。いじめた事うらないのに」

「嘘をつくな。ゆき様について悪い噂が立った時、誰があいつらをいじめていたのかも、どうしてそうしたのも分かっている。ただ、これからあいつらに模範を示してくれ。特に狐一の奴に」

狐子はクスクス笑いました。「頑張ります」

第八十四章

殿様の到着

それから狐一はだんだん城の暮らしに慣れてきました。広子の獣に対する恐怖心は消えた後でも、狐一の口答えは絶えませんでしたのに、暇さえあれば、二人は一緒にいることが多くなりました。

狐子からの修行は喧嘩ごしにもかかわらず、狐一の振舞いはだんだん礼儀正しくなって、家老に叱られることは減ってきました。

しばらくすると、殿様の到着の日が来ました。見張り所から殿様の旗が見えると、ゆき達は城門に集まりました。ゆきは深く頭を下げました。「お義父上、こちらへようこそ。長旅でお疲れでございましょう。お湯も食事も用意させてありいます。どちらでもお寛ぎください」

殿様はゆきの姿を見やりました。「ほお、お腹が大きくなっとるな。すぐに孫ができるんじゃろうな。お前の素晴らしい茶道をまた楽しんでみたいが、どうじゃ?」

「もちろんですとも。こちらへいらして頂けたら、すぐに道具を用意いたします」と言うと、ゆきは殿様と若殿を連れて自分の部屋へと向かって歩き出しました。

すると、家老は声をかけました。「狐一、荷物を持っている家来を殿様の部屋へ連れて行け。そして、兵舎へ」

「かしこまりました」と言うと、狐一は殿様の家来を連れて出ました。

狐子は家老に近づいて囁きました。「狐一君はいい子になったでしょう」

「みたいだな。しかし信用ならない。この訪問が問題なく終わるよう祈っている」と家老は小さく答えました。

第八十五章

殿様との茶席

ゆきのお茶を飲んだ後、殿様は声をかけました。「ほお、懐かしい。ここで素晴らしいお茶席を楽しむのは十五年ぶりのことじゃな。そなたのお点前はすぐにおばあさんを越えるじゃろうな」

ゆきの顔が赤らみました。「祖母のお点前と比べられるなんて、とんでもないことです」

「もう一つ懐かしいことがある。あの門で会った、赤毛の女子じゃ。ここで籠城していた時を除いて、赤毛の者に会ったことはない。しかも、あの子はあの時の子とよく似とる」

「あっ、それは狐子さんです。そういえば、狐子さんもここに籠城していたと言っているのです」

「とんでもない!あの子は、まだ二十歳にもなるまい。しかし、あの時の子も確か『ここ』という名前だったと微かに覚えておる。門にいた子はあの時の子の娘か何かかな」

「でも、狐子さんの他にもう一人の籠城していた者がいます。家老さんも狐子さんが籠城していたと信じているようです」ゆきは頷いている若殿の方をちらりと見た後、「女将さん、家老さんと狐子さんを探してここに来るようと伝えてください」女将が会釈をして部屋を出ると、ゆきはまた話し出しました。「あの者達を待つ間に、もっとお茶でも召し上がりませんか」

しばらくすると、女将は狐子達を連れて戻りました。しかし、彼らを殿様に紹介するや否や、廊下から駆けて来る足音が聞こえました。間もなく障子が開いて、肩で息をしている広子が戸口に立っているのが見えました。「家老様!大変です!狐一君が…家来達と…喧嘩しています!」

「あいつめ!」と叫ぶと、家老は飛び上がり、皆と共に部屋を出て広子について行きました。

第八十六章

狐一と家来達

狐一が家来たちを殿様の部屋へ連れて行く途中、家来の一人が彼に声をかけました。「おい、そこの餓鬼、普通の小姓よりもずいぶんと年上なんじゃないか?なぜまだ小姓のままなんだ?そんなに頭が悪いのか?」

狐一は歯を食いしばりましたが、家老の「問題を起こすな」という言葉を思い出し、黙って歩き続けました。

殿様の部屋に着くまで狐一は家来たちに侮辱を受け続けましたが、狐一は聞こえない振りをしたまま歩きました。しかし、部屋に殿様の荷物を置いてそこを出る間もなく、話題が変わりました。「ほら、この城の主は我が殿の若君だったじゃない?なぜお世継ぎを失ってまで、こんなところへ追放したのかな?」

「いいか、あの方は百姓の娘と恋に落ちたんだな。なぜか我が殿はその女と結婚させてやったが、その代わりにお世継ぎを次男に譲らせなければならなかったのだ」

この台詞を聞くと、狐一は頭に血が上ったように振り返って叫びました。「ゆき様を百姓なんか呼ぶな!謝れ!」

家来たちは高笑いをしました。「この餓鬼が俺らの長のつもりでいるぞ。おい、小姓め、俺らが謝らないならどうする?」

ちょうどその時、広子はそこをを通りかかりました。その光景を見るなり、狐一の元に駆け寄って声を上げました。「狐一君!お客様に叫ばないで!家老様から罰を受けるわよ!」

家来達はさらに高笑いをしました。「ほら、この餓鬼は女子に守られないと駄目なようだぜ!」そして、家来の一人は広子の手を掴んで引き寄せました。「俺様の方があの餓鬼よりもいい恋人になるぞ」

「きゃっ!手を離して」と広子は言うが速いか、その家来はすでに倒れていました。その仰向いている姿に跨がっているのは狐一でした。「広子さん!家老様を呼びに行って!」

「ほお!この餓鬼は度胸があるな!行くぜ!」と家来の一人が言い終わる前に、広子は廊下を駆けて行きました。

第八十七章

喧嘩

家老達が殿様の部屋の近くまで来ると、ドカン、ドシンというただならぬ音が聞こえてきました。角を曲がると、十数人の男達が真ん中で暴れている誰かを捉えようとしながら倒れたり壁に突き飛ばされたり悪戦苦闘しているところでした。「やめろ!」と家老が叫ぶと、そこにいた者達はいっせいに大名達の方を振り向き、凍り付いてしまいました。

家老はその惨状を見渡しながら言いました。「城内で喧嘩をするとはどういうことなのか?説明せよ!」

傷だらけの家来達の一人は狐一を指差しました。「こいつが仲間を倒したんです」

かすり傷一つなさそうな狐一は深く頭を下げると大名に向かって言いました。「申し訳ございません。自分に対する悪口は聞き捨てることができたのですが、ゆき様は百姓だとか我が殿はこちらへ追放されたとかいうような酷いことを聞き、その上広子さんが乱暴に扱われているのを見ると黙っていられなくなってしまいました」

ゆきと若殿と殿様は呆然と見返して、そして、ドッと笑い出しました。「私は大名の娘ではありますが、農村育ちなので、百姓と呼ばれても気にしませんよ」とゆきは言いました。

殿様も声をかけました。「息子を追放したのなら、どうしてわしがここを訪ねよう。息子や、ところで、あの小姓を貸してくれないか?我が国の武道の指南役を変えなくてはならんらしい」

若殿は首を振りました。「残念ながら、あの者は同盟族からの預かり者で、教育は我らに任されています。だから勝手にお貸しするわけにはまいりません。さあ、茶席に戻りましょう。そこでこのことについてもっと詳しく話しましょう。家老、あの連中をそなたに任せる」と言うと、若殿達はゆきの部屋へと向かって去りました。

家老は頷きました。「狐一、執務室に行って沙汰を待ちなさい。広子、あの乱闘の始末をせい。お前らの処罰については、殿様がお決めになるだろう。私について兵舎へ参れ」

家老は狐一が側を通り過ぎる時、ボソッと呟いたのを聞き逃しませんでした。「俺一人だけで百頭の人間と戦っても、当然俺様の勝利だと言っただろう?」

第八十八章

小姓をやめる

狐一はしばらく執務室の外で廊下の壁にもれながら待ちました。「け、あの騒ぎのおかげで、俺は狐の谷に戻されるかもしれない」と呟いた後で、大きなため息をつきました。「しかし、こんなに早く戻ると、俺が何か問題を起こしたとみんなが邪推して、伯母姫の顔を潰すことになるに違いない。どうしたものか?」そして忍び笑いをしました。「だが、人間どもをぶっ飛ばすのは楽しかったぞ。大怪我しないように気をつけなくちゃいかんがな」

やっと足音が聞こえてきました。狐一は背筋を伸ばして立ち上がりました。すぐに家老が現れて、執務室の障子を開けました。机に着席した後、「入れ」と命じました。

狐一は机に近づき、黙ってそこに立ちました。

「小姓が勝手に、訪問中の侍と大喧嘩するなど許されることではない。分かったな?」

狐一は唾を呑んで、頷きました。

「斯くある上は、小姓としての勤めは解任する。他の仕事を命じる。厩の掃除などをな。ふむ」紙と筆を取り、家老は何かを書き始めました。狐一は息を詰めました。手紙を折り畳んで封じてから、家老は狐一へ差し出しました。「これを親衛長に届けよ」

狐一は手紙を受け取り、出ました。「いったいこれにどんなことが書かれているのかな」と思いながら廊下を歩きました。

第八十九章

殿様との会話

一方、ゆきたちはゆきの部屋に戻りました。皆が正座した後、殿様は話し始めました。「狐子殿、わしがここに籠城していた時、お前のような赤毛の娘に会ったことがあるな。お前はその子だそうだが、それは信じがたいことじゃ。その子のように、お前は十代後半と見える。お前を良く見ると、その子と良く似とる気がする。お前は本当にその子か?それとも、その子の娘とか、妹ではないのか?」

「本当ですよ。これなら、お信じていただけますか」と狐子は言うと、突然髪の毛の半分は灰色になり、口と目の周りに皴が現れました。「それとも、こうならばどうですか」今度は体が太た体になりました。「でも、そんな姿はあまり楽しくありませんね。これでいいです」狐子は元の姿に戻りました。

殿様は驚いていました。「まさか、何者だ?息子や、妖怪か何かがここに住むことを許しているのか?」

「父上、狐子は狐のようです。ゆきを助けた狐の娘だそうです」

「なるほど。狐は人の姿に化けることができるそうだな。狐子殿、どうしてそんなに目立った髪の色をしているのか?たった今のように、髪の色も変われるな」

狐子は甘く微笑みました。「狐だから、生まれた時からこの色なので、これが好きなのです。だから、姿を化けるおまじないを習った時、目立つかどうか構わず、この色でいいと決めました。まあ、あなた様なら、どんな色にするのですか?」

「ふむ」殿様は顎を撫でて、丁髷を触りました。「どんな色の髪にでもできるのなら、この銀髪を元の黒にするだろうな。何しろ、周りの者と同じような色にしかしたくないと思う。『出る釘は打たれる』と言うからな。ところで、お前はどのように当時の包囲された城を逃げ出せたのか?わしらと同じく、家来によって地下道のありかを知ったのか、それとも狐の呪術で逃げたのか?」

狐子はくすくすと笑いました。「私が狐の能力であの地下道を作って家老さんに見せたのですもの」と、ゆきとどの関係があることや、どうしてあの時彼女も籠城していたのかを説明し始めました。その途中、家老が戻ってきて、自分の経験を加えました。

その後、殿様は二人を見比べながらにやりと笑い、「ほ、二人とも、恋愛を暮したらしい。結婚式はいつだ?」と目を輝かせながら訊きました。

狐子と家老は慌ててしばらく沈黙しました。そして、家老は「そ…そのようなことは、ま…まだ決めていません」と言い、狐子は「父は…族長はまだちょっと…」と言いました。

「ほ、もう自分の意志で生きているというのに、問題は父親の許可なのか?そうじゃ、わしに任せろ。狐殿を呼びなさい。わしが仲人になろう」と殿様が言うと、狐子は「そんなにもったいない言葉をして下さったら、本当にありがとうございます」と、深く頭を下げました。

殿様は膝を叩き、若殿の方へ視線を向きました。「よし!息子や、不思議な琵琶法師を雇っているそうだ。あいつはどこに隠れているのか?」

第九十章

狐一と親衛長

一方、狐一は道場に着きました。そこでは親衛長が棒や木剣で修行している男達を見守っていました。狐一が家老からの手紙を渡すと、親衛長は「ちょっと待て」と言い、手紙を読みました。

そして、「侍と喧嘩したいらしいな」と言い、狐一の大きさを目で計ってから、棚から男達が着ていると同じような綿入れの服を出しました。「これを着なさい」と、狐一に服を与え、練習用の武器が並んでいる棚から一本の棒を手に取りました。それを着替えた狐一に渡し、棒を使っている男の一人を呼びました。「この小姓は武士と戦いたいらしい。実力を見てみたい」と言うと、狐一の方へ向かいました。「打たれないでそいつを打ってみろ」

この棒をどう使えばいいのか分からないまま、狐一が呆然と棒を見つめている間に、男の棒は宙を切り、狐一の持っていた棒をはね飛ばし、狐一の胸を目掛けて飛んできました。しかし、その時には、狐一はもうそこにいませんでした。

その攻撃の上から反応が遅すぎる男に向かって飛んでくる狐一は、相手を肩に蹴り、後ろへよろけさせました。男が倒れるのと同時に、狐一は元の場所に軽く着地し、親衛長の「やめろ!」という叫びが聞こえました。

親衛長は狐一が落とした棒を取り上げ、「武器を放すな!これで相手を叩けと言ったろう」と怒鳴りつけました。

「こんなのの使い方が分かりません」と狐一は指を伸ばしたり折ったりしながら「僕にとって、これさえあれば、武器は充分ですよ」と言いました。

「自分で戦うなら、素手で戦っても構わん。しかし、親衛隊に入ったら、隊員の一人として戦うことが必要な場合も多い。そんな時、全員がそれそぞれに必要な武器を使わなくちゃならんぞ」

「親衛隊に入ると…?なるほど」狐一の目は城に来てから、初めて輝いていました。「じゃあ、この戦い方を習って頑張ります」と言うと、改めて棒を手に取って、練習している男達の構えを真似ました。

第九十一章

殿様と狐

ちょうどあの翌朝、狐は狐子の部屋に現れました。「狐子や、なぜこんなに急にここに来るように呼んだのだ?まさか、ゆきにお前が手に負えないほど酷い事件が起こったのか」と訊きました。

狐子は首を横に振り、「そんなことはないわ。ただ、お父様に会いたいとおっしゃっているお方がいるの。こちらへどうぞ」と言うと、殿様がゆき達と一緒に咲き始めた桜の花見を楽しんでいる庭へ狐を連れて行きました。

その様子に気づくと、狐は人間の姿に化け、「ご無沙汰しております」と殿様に呼びかけました。

殿様は、「そうだな」と言い、ゆきと若殿を示し、「この二人の婚礼の時、お前の顔には見覚えがあった気がしたが、いつどこで会ったのか思い出せなかった。しかし、お嬢ちゃんの話を聞いてピンときた。子供の頃、親友に会いにここに来たら、お前も赤毛の女子と共に来たことがあったな」と、狐の背中を軽く叩きました。「綺麗なお嬢ちゃんがいるな。ここに籠城した時からずっと。ほとんど一人で過ごしているようだな。なぜ夫を選んでやらないのだ?」と訊ねました。

狐はしばらく俯き、「そう言われてみると、狐子に夫を選ばせたくはありません。ただ、こんなに若い頃から、姉のように夫の死を悼むような思いはさせたくないのです。分かるでしょう?」と答えました。

殿様は「いいか、お嬢ちゃん自身もそのことはよく分かっているだろう。それに、こいつは兵ではないので、戦で死ぬはずがない」と、家老を示しました。

その時でした。悲鳴が聞こえました。

第九十二章

ゆきの陣痛

悲鳴をあげたのはゆきでした。皆はゆきの方へ振り返りました。ゆきは大きくなっているお腹に手をあてていました。 ゆきの隣に座っていた若殿は慌てて立ち上がりました。「ゆき!どうした?大丈夫か?」と混乱したように訊きました。 ゆきは、「痛い!お腹が痛いの!」と泣き声で答えました。 若殿は辺りを見回し、「どうすればいい?誰か、医者を!ゆき、しっかり!」と言いました。 花見のおやつを配っていた下女と喋っていた女将が声をかけました。「殿、恐れながら、助産婦を呼んだ方が適当でしょう。それは産痛に違いありません。ゆき様、痛みは治まりましたか?」と尋ねました。ゆきが頷くと、「お部屋にお戻り下さい。庭で産むのはお恥ずかしいことでしょう。広子、奇麗な布をゆき様の部屋に運びなさい。沸かしたお湯も必要ですね」と言うと、ゆきの腕を取って、立ち上がらせました。 下女達が準備をしに行くと、若殿達はゆき達と一緒に部屋へ向かって行きました。しかし、部屋に着いた時、若殿も入ろうとすると、女将は、「これは女のことなので、男子禁制でございます。例え殿でも入室はお断ります」と言い、襖を閉めました。 若殿は血が頭に上ったように、「あれは俺の妻で、産まれるのは俺の子ではないか!」と怒鳴り、襖を破れるところでしたが、後ろから誰かが肩に手を置きました。振り返ると、殿様でした。 「やめろ。無駄だ。お前が生まれた時、わしも今のお前と同じように母と一緒にいたかったができなかった。待つ間庭に戻り、できるだけ花見を楽しもう」と、若殿の腕を取って、庭へ連れて行こうとすると、狐が声をかけました。「失礼ですが、後でお話ししましう。誰かにこのことについて知らせに行ってきますから」と、お辞儀をしてから去りました。

第九十三章

ゆきの子

庭に戻ると、若殿はまた花見を楽しもうとしましたが、気持ちが高ぶって、視線は桜よりもついついゆきの部屋の方へ向き、無意識に庭のあちこちを歩き回りました。

しばらくして狐は一人の供人と一緒に戻ってきました。供人を殿様達に紹介してから、狐達も待ち始めました。待ちながら、狐は殿様との会話を続けました。狐子のことを決定すると、二人は狐子と共に若殿の態度や活動に対して論評し始めました。

ようやく、昼過ぎ、女将が庭に出てきました。「母子共に元気でございます。殿、今はお嬢様をご覧になれます」

若殿は「女子だ!父になった!」と繰り返しながらしばらく人から人へと駆け回りました。そして、ゆきの部屋へ向かって駆け出しました。皆も少し遅れて若殿について行きました。

部屋では、柔らかい布で包まれた赤ん坊が、幸わそうな笑みを浮かべたゆきの胸に抱かれていました。その光景を壊したくないのか、襖の脇から若殿は静かに二人を見つめました。

しばらくしてゆきは若殿に目を向けました。「旦那様、娘を抱いてやってくださいませんか」と腕を伸ばしながら優しく訊きました。

若殿は少しためらってから部屋に入り、娘を抱き上げました。続いて入って来た家老が、「殿、家系図には、どういうお名前を記しますか」と訊ねました。

若殿はしばらく呆然としていましたが、ゆきはすぐに声をかけました。「桜。この子は桜です」と言うと、若殿は名前を含味するかのように「桜」を繰り返してから、「うん。桜がいい」と言いました。

殿様は「見事な名前だな。美しい孫娘に相応しいんじゃない」と、手で若殿の背中を軽く叩きました。

「可愛い!次に抱いてもいい?」と、桜を見た狐子が飛び跳ねんばかり興奮しました。

そして、狐がゆきの知らない女性を連れて枕元に来ました。古風な着物に古風な黒髪の美しい人でした。しかし、その顔には見覚えがありました。狐が「ゆき殿、こちらは…」と紹介を始めると、ゆきは口を挟みました。「まさか、もしかして…おばあさま?いや、ひおばあ様ですか?」と言いながら立ち上がりました。

女は頷き、優しく微笑みました。「初めまして、ゆきや。狐の谷の姫と申します。あまりに長く時間狐の谷に籠ったまま、我がままに自分の悩みしか考えていなかったのね。弟がお前の活躍を伝えるたびに興味が少しずつ掻き立てられたの。ついに、お前が子を産むところだと聞いて、来ざるを得なかったの」と言うと、ゆきを抱き締めました。

その抱擁が終わると、殿様は声をかけました。「ところで、狐殿が狐子ちゃんと家老殿の婚礼を許してくれた」

ゆきは、「本当?すごい!いつですか?」と言うと、顔が割れんばかりに微笑みました。

家老は狐子の顔を見つめながら、「まだ決めていません。できるだけ早くと思っています」と答えました。

狐は、「ゆき殿、ついに幸せを見つけたのですか」と訊きました。

ゆきが家族と友達の笑顔を見回し、「本当に幸せですが、まだ足りないことがあります」と言うと、皆はぽかんとゆきを見つめました。

若殿が「いったい何が足りないのだ!?」と訊ねると、ゆきは若殿の手を取り、顔をまっすぐに眺めながら、「子供です。一人子でしたので、多くの子供が欲しいのです。この城を子供でいっぱいにしたいのです」と言いました。そして、皆は笑いました。