ゆきの子供達
二階の窓際で女の人が、兵を集めるための広い中庭を見下ろしている。彼女は、大きくふくらんだお腹を、愛おしそうに撫でていた。長い髪はまだ黒々としていて、よく見ないと、その中にごく僅かの白毛が混じっているなど誰も気がつかないだろう。頬に刻まれたうっすらとした皺はきっと、今のように、彼女がよく微笑んだ証なのだろう。そして、身に纏った高価な着物は絹に違いない。
中庭では、数人の少年が武道の練習をしていた。少年と言ったが、そのうちの二人は長く結った髪をしていて、相手の者達より背が低かった。それにしても、その二人の突きは飛び抜けて的確で力強かった。動きも流麗で、無駄がなかった。
「お母様、また姉上達の修行をご覧になっているの?」と、ちらりと顔を上げて女の子が言った。九、十歳くらいであろうか、本の間に突っ伏して、何かを一生懸命書いている。少しあきれた口調だった。
母は娘をちらっと見ると、「ええ」と、窓の外に視線を戻した。
その時、廊下から足音が聞こえた。すぐに襖が開いて、十五、六歳の女の子が怒った顔で入ってきた。「お母様、お父様にお話しして下さらない?お父様はなぜ、あの怪しい大名と私を結婚させたがるのかしら!あの方、もう四人も奥方がおいでなのよ!それに、あの醜さといったら!!長女だから、素敵な若殿と結婚するはずなのに!」とぼやいた。
先の娘は、視線を紙から離さぬまま、「男の子は嫌い」と興味なさそうに言った。
姉は妹の元につかつかと歩いて来て、妹が覗き込でいた本を無造作に取り上げ、「百合、このような童話や物語を読んでいるのに、本当の事は何も分からないのね。少し成長すると、気持ちが変わるでしょう」と言った。
すると、百合は思わず筆を落とし、飛び上がり「それは私のよ!返して!」と叫んで取り戻そうとしたが、力の限り跳んでも、百合は本に触ることさえできなかった。
母は振り返って「桜、妹をいじめないでおくれ。百合はまた小さいのだから」と言うと、二人の下に歩いて行き、優しく本を桜の手から取り、百合に戻した。百合は本を胸に抱き、墨で染まった紙の方を見て、「まあ!書き直さないと…」と言いながら姉を睨んだ。
母は桜の腕を引っ張り、部屋の隅に行った。二人はそこに座り、母が「あなたも評議に参加しているので、国の状況が分かるでしょう。お父様が殿の座に就いてからこの十五年あまり、国はだんだん貧しい国から豊かな国になって来ましたね。でも国が豊かになると、近隣諸国の妬みを買ってしまうの。この戦国時代には、味方がいないことは危険なことなのですよ」と言うと、桜は口を挟んだ。
「それは分かっております。でも、あの大名と結婚することといったい何の関係があるの?あの方は私達のおじい様と同じぐらい年じゃありませんか」
母は「ああ、おじい様は亡くなるまで近隣諸国の覇権を握っていらっしゃった。でも、おじい様が亡くなった今は、近隣諸国の城主の誰もが権力を得ようと画策しているのですよ。あの武威の高いお方にはたくさんの奥方がいらしても、まだお子様がおりません。跡継ぎを産む奥方がいればきっと同盟を結べるとお思いになって、お父様はあなたの縁組みを提案しているのです」と答えた。
「そうですか。でも、四人の奥方にお子様がいないのなら、大名の問題ではありませんか?新しい奥方が身籠る可能性はほとんどないではありませんか?」と少し落ち着き取りを戻したところで桜は訊いた。
母がくすくすと笑い、「男の方は、そうはお考えにならないでしょう。特にご本人はね…」と言うと、桜も笑わざるを得なかった。
二人の笑いが収まると、母は「とにかく、またお父様にお話ししてみましょう。やはり、五人目の奥方になるのは桜には相応しくないでしょう。特にうちにはまだ長子がいないから…」と言った。
すると、桜は「ありがとう、お母様。長子と言うと、今度は…?」と母のお腹を示した。
母はまたお腹を撫で始め、「神様に任せるしか仕方がないですね。前のように、お社で男子が授かるようにお祈りいたしましたけれど」と首を振りながら答えた。
「私もそのようにお祈りしています」と桜が言うと、二人は立ち上がり、互いに抱き合った。
そうこうしているうちに、開いたままの襖から粉まみれ顔の、少し太っている七、八歳の女の子が現れ、「お母ちゃま!私がこしらえましたおにぎりを召し上がりませんか?」と興奮しながら言った。母に駆け寄ると、おにぎりを一つ渡した。
母はおにぎりを手に取って食べると、「美味しい!ありがとう、鈴」と言ってから鈴の膨らんだ懐を見て、「お姉様達にも食べさせてみたいと思いませんか?」と訊いた。
鈴はしばらくためらったが、ようやく物惜しそうに懐から葉で包まれたおにぎりをもう二つ取り出し、俯きながら桜と百合に渡すと、「後で食べたかったのに…」という小さく呟いた。
母は鈴の頭を撫で、「もう充分食べたでしょう?今までいくつ食べましたか?」と訊ねた。
「ええと…味見したのと落としたのと、階段を上った時のと廊下を歩いた時のだから…たぶん五つでしょう?」と鈴は真面目な顔をして指で数えながら言った。
「そうだと思いました。もう少しおやつを減らしましょうね」と母が言うと、長い赤毛の女の人が部屋に入って来て、「ゆきちゃん、諦めるしかありませんよ。鈴は一日中台所でうろうろしているから、いつでも下女からお菓子をもらうことができるのですよ。だから、そんな望みは持つだけ無駄でしょう」と言って襖を閉めた。一見したところでは年齢は桜と同じようだが、その輝いている瞳の奥を見ると、なぜかかなり年上だという気がする。桜より背が低いその女の着物は母の――ゆきの――と同じように高価なもののようだったが、その渋い柄の着物に対して、顔立ちや印象はかなり派手だった。
鈴は「狐子おば!」と呼び、赤毛の女に向かって駆け寄り、腰に抱きついた。そして、懐からもう一つのおにぎりを取り出し、狐子に渡した。「どうぞ食べてみてください。私がこしらえたんです!」
おにぎりを食べてから、狐子は鈴の方に身を屈め、「いつかいいお嫁さんになるでしょう。男性の心を掴むには、まず胃袋を満たせと言いますからね」と、鈴の髪を優しく撫でた。
それを聞くと、鈴の笑みはさらに広がった。両腕を頭の上で振り、「わい!狐子おばに褒めてもらって嬉しい!」と叫びながら部屋を駆け回った。
ゆきは狐子のところに歩み寄り、微笑んだ。「狐子ちゃん、いつも子供達を甘やかしすぎますね。はじめて会ったその日の内に、子供のことが大好きだということに気付きました。でも、今でも分からない点があります。それほど子供が好きなら、私のようにたくさんの子供達を産むのだと思いました。でも、息子が二人しかいません。どうしてですか?」と訊いた。
狐子は、「主人の年齢を考えてのことなの。婚礼の前にもう四十代だったので、彼が子供達の成長を見届けるのは難しいと思って。それで、次男が生まれた時、子供はもう充分だと互いに思ったの。その後、身籠らないためのおまじないを使うようにしたの」と答えた。
ゆきは、「なるほど。そのおまじないはとても便利ですね。私は大家族が欲しいけれど、少しうらやましい気もします。家老殿と言えば、今はいかがですか」と、少し困ったように親友の顔をまっすぐに見やった。
狐子のいつも輝いている瞳が曇ったように見えた。俯きながら、「主人はまだよくなってないの。事件の時に動かなくなった右手足が少し動くようになったけど、まだ自分では歩けないの。私が狐の力をもってしても、おまじないで最愛の人を治すことも、たったの一日、寿命を伸ばすことすらできない。人間の命はあまりに短い」と、溜息をついた。
でも、持ち前の元気な性格では長く悲しみに沈んだままでいることはできなかった。狐子はすぐに笑顔を取り戻し、「悲しいことは充分です。桃と李の練習はどうでしたか?」と訊いた。
ゆきは窓際に戻り、「あの二人はとても上手になっています。ええ、修行はすでに終わりました」と言うと、廊下から走って来る足音が聞こえた。
すぐにまた襖が開いて、さっきまで中庭にいた、髪を結い上げた二人が駆け込んで来た。間近に見ると、二人は厳つい道着を着ていても、男ではなく、十一、二歳の女の双子だということに気がつく。その二人はきっと桃と李だろうが、どっちが桃で、どっちが李かということは、母でもよく間違える程であった。男っぽさは外見だけとは限らない。身のこなし方や話し方、態度にまでも、姫らしくない点がたくさんあった。その二人は、部屋に入り狐子を見るや否や、「狐子おば!」と一斉に叫び、駆け寄って抱きついた。すると、桃…だと思うが、目を閉じ、深く息を吸い込み、「何か美味しそうな匂いがする」と、李…だと思われる方が、狐子を見上げ、「狐子おば、お菓子を持ってきたの?」と言った。
狐子は、「持ってきたのは私ではありませんよ」と答えると、双子は顔を見合わせ、「鈴!」と叫び、妹の方に向き直り、「お菓子をちょうだい!」と呼んだ。
鈴がくすくすと笑いながら「いや!私の!」と、部屋を抜け出そうとしたが、素早く双子の一人が出口を遮った。だが、前後から伸びた双子の手が妹を捕まえる前に、鈴は身を縮め、部屋の奥に駆け戻った。何度も双子が鈴を掴んだ――と思うと、鈴は間一髪で逃げた。でも、双子は鈴を部屋から逃がさなかった。どうしてこの武芸の達者な二人が太っている妹を捕まえることができないのかと思われるかもしれないが、三人の笑い声を聞けば、彼女達が単に遊んでいるだけだということにお気付きになるだろう。彼女達のお気に入りの遊びというわけだ。
そのうち、鈴は息を切らし、足取りも重くなった。床に転げて仰向けになった鈴は、はあはあと息づきながら、「やっぱり、…また…負けた…。今度こそは…逃げる…よ」と言いました。
双子は鈴の腕を一本ずつ掴み、立ち上がらせた。妹に歩かせながら、「褒美を渡せ!食べ物をお出し!」と繰り返した。
まだ息が治まらない鈴は、笑顔のまま、残りの二つのおにぎりを懐から取り出し、双子に一つずつ渡した。
その遊びを見ていた狐子は、「ゆきちゃんはあの二人に関してはちょっと甘やかしすぎみたいね。他の子供達にはあのように妹をいじめることを許さないんじゃない?どうして二人には許しているのかしら?」と少し困ったように言った。
ゆきはくすくすと笑い、頭を横に振った。「あれはいじめている訳ではありません。鈴を遊びながら運動させているのですよ。鈴が降参するか部屋から抜け出すまではできるだけ運動させる、という約束をしました。鈴が部屋を抜け出したら、追ってはいけなくて、鈴が持っているお菓子はもらえません。同じように、鈴が泣いてしまった場合も、お菓子をもらえません。そして、双子達はどうして楽しくなかったのかを反省しなければなりません。でも、最後まで楽しくて鈴が部屋を抜け出すことができなかった場合、鈴はご褒美としてお菓子をあげないといけません」
狐子の瞳は前よりも明るく輝いた。「なるほど。どうして私がそのような遊び方を思い付かなかったのかしら、驚きだわ」というと、ゆきは「実は、『狐子なら、何をするだろう?』と考えながら、これを思い付きました」と答えた。
二人が互いに笑っていると、戸口から「まあ、お二人とも、子供達が何かいたずらをやっている時には、なぜかいつもあなた方がいらっしゃいます。今日は何をやったのでしょう」と言う声と共に、「母ちゃま!狐子おば!」と言う叫びが聞こえた。一、二歳の赤ん坊を抱き上げた老女の側から二人の幼い女の子がゆき達の下に駆け寄った。一人は三、四歳で、もう一人は五、六歳だろう。
ゆきは駆け寄った子供達を抱くと、そのうちの姉の方が、「母ちゃまが婆やの温泉で働いていたと婆やが教えてくれたの。本当にそうだったの?」と訊いた。
ゆきはしゃがみ、その子を真っ直ぐに見て、「そうです、椿。桜お姉様と同い年だったのです」と答えた。
椿の隣に立っている妹は「私も温泉ではたわけうぅの?」と少し舌足らずに尋ねた。
ゆきがくすくすと笑い、その子の方を向き、「白菊、姫が温泉で働くのは変です」と言うと、椿は「だって、母ちゃまがそうしたら、ちっとも変じゃないじゃないか?」と口を挟んだ。
ゆきは「その時、私が姫であるということはまだ知りませんでした。それに、まだ幼い頃に両親が亡くなって、お祖母様にこっそりと貧しい村で育てられたので、お祖母様がなくなると、どこかで働かざるを得ませんでした」と説明し、立ち上がり、婆やから赤ん坊を受け取った。そして、「蘭、今日はいい子でしたか?」と言うと、蘭は「ばば」と笑顔で言った。
ゆきは部屋を見回し、娘を数えた。「一、二、三、四、五、六、七、八…誰かがいません。蓮?誰かが蓮を見ましたか?」と訊ねると、桜は声を上げた。「そう言えば、今朝、紙束を持っているところ廊下で見ました。以前一人でまだ作っていない建物を探しに行った時のように、下女の服を着ていました。城の門の外へ出てはいけないことを忘れないでと言いましたのに、蓮は単に『はい、はい、分かってる』と答えました」
すると、鈴も口を挟んだ。「台所にいた時、蓮お姉ちゃまが勝手口を抜け出すところを見ました」
「どうしてあの子があれほど多くのおもちゃの家を作りたがるのか分かりません。蓮の部屋はもう布団を敷く隙間もないほどおもちゃの家で埋ってますよ」と桜が続けると、紙から視線を動かさず百合は、「桜お姉様はしばらくすれば結婚して引っ越すようだから、蓮お姉様は襖を外して桜お姉様の部屋に自分の部屋を延ばすと言ってたわ」とつまらなそうに言った。
桜は目を吊り上げ、両手を腰当てて肘を張り、ゆきを振り返り、「何てことを!お母様…」と言いかけたが、ゆきの顔を見ると、黙り込んだ。
目を閉じたゆきの顔は青ざめて、手首に巻いていた数珠を握り締め、祈るように何かを呟いていた。
狐子はもう部屋のどこにも見えなかった。
蓮は何をしている?
その夜明、蓮が窓際で目覚めた時、障子越しに差し込む淡い光が、蓮の周りに取り囲むように暗い影を作り、布団だけが白くぽっかりと浮き上がったように見えた。でも、彼女にとって、その影は怖いものではなく、よく見慣れたものであった。
蓮が障子を開けてもっと光を入れると、影の正体は隙間なく並べられたおもちゃの家であることが分かった。城や山小屋、屋敷や草屋、お寺やお社、小間物屋に至るまで、壁を覆って天井まで重ねた棚から溢れた小さな建物が布団の縁まで迫っていた。
愛しく部屋を見回し、家と家の間の狭い通路を歩きながらそれぞれの建物を優しく撫でている蓮は、「もう少し待ちなさい。しばらくするともっと広いところに移れるから。あれ?兄弟がもう一軒欲しいの?うん、今日はあなたの兄弟に良さそうな家を探しに行ってくるわ」と呟いた。
少し踏み違えただけで、家を一軒を壊してしまうほど狭い通路を用心深く進みながら、蓮はあちこちで何かを直すために立ち止まった。そうしているうちに、明るい日差しが部屋を照らし始めた。
蓮は、自分の作った建物の中で最も大きな城の前で止まり、小さな門を開け、その奥に隠していた下女の服を取り出した。服を胸に抱いた蓮は、注意深くまた狭い通路を歩き布団に戻ると、素早く着替え、黄土と木炭の欠片を袂にしまい、紙束を手に取って襖を開けた。廊下の両側を見渡し誰もいないことを確認し、襖を閉めて台所へ向かって歩き始めた。
残念なことに、廊下の角を曲がった所で、向こうから来る桜に出くわしてしまった。無論、その距離では長女が次女を見逸れるわけがなかった。
「蓮!どうしてそんな妙な格好を?また建物を見に行くつもりなの?決して一人で城の門の外へ出るなとお父様がおっしゃったことを忘れないで!」と言いながら桜が蓮の腕を掴もうとしたが、蓮は「はい、はい、分かってる」といらいらしたように言いながら桜の手を払い除け、廊下を階段まで駆けて行った。
桜は「ああ、もう!あの馬鹿な子の面倒を見ている暇はない。今朝の評議に行かないと…」と呟き、妹のことは忘れ、評議室へと急いだ。
階段を下りながら、蓮は「もう、城の門の外へ出るななんて!城からはっきり見える建物ならもう全部作ってしまったのに!城下町に行かないと、良さそうな家が見つからない!」と呟いた。
しばらくすると、蓮は台所に入った。いつもの朝のように、台所は賑やかだったが、運良くそこにいる下女達の視線は鈴の方に向いていた。
下女が一人鈴の方に身を屈め、「今日、お姫様はどんなお料理をお作りになりますか?」と言った。
鈴は下女を見上げ、「何か美味しいおやつ!」と答えた。
下女は、「おにぎりはいかがでしょうか?」と勧めた。
「いいよ!おにぎりが大好き!」
一方、蓮は卓に積まれたおやつをいくつか取り、懐にしまってから勝手口から出ようとすると、背後から「蓮お姉ちゃま!おにぎりをこしらえてみます!後で食べてみてもらえますか?」と言う威勢のいい声が聞こえた。「しまった」と呟くと、蓮は勝手口から飛び出した。
蓮は塀の側の桜の木へと急ぎ、紙束を懐にしまってから上った。枝を這って塀の上に乗り移り、向こうに下りた。すると、目の中が町の建物でいっぱいになった蓮はそこへ向かって歩き始めた。
町の道をぶらぶらと見て歩きながら、「あれは合っていない」とか「あれはもう作った」とか呟いている蓮の目には建物以外の物は何も映っていないようで、周りの人々にも気を配っていないようだった。だから、どこに行っても蓑を着た姿が少し離れて蓮をつけていたことにも、豊かな城下町を通り過ぎ、貧しく寂れた場所に迷い込んだことにも気がつかなかった。
ようやく、蓮はある建物に引き付けられた。近づくと、「あれかしら?」という呟きは、すぐに「あれしかない!」という確信に変わった。
どうしてあの家に決めたのか、蓮自身にも分からなかっただろう。昔は鮮やかな色であったと思われる二階建てのその家は今はくすんで白茶けて見える。二階の露台にも入り口にも幾人かの女がいて、緩んだ着物の胸元が少しあらわになり、裾がはだけて太ももが見えていたというのに、建物にしか注意が向かない蓮は気がつかなかった。
道の向こう側に腰をかけ、蓮は紙束を膝に乗せて、黄土と木炭でその建物を描き始めた。
しかし、そうしているうちに、大きな重い手が肩に置かれ、太い男の声が聞こえた。「お嬢ちゃんは綺麗やなぁ。それに、うちに興味があるらしい。これからうちで働くのはどうだ?」
「忙しいから放っておいて。あっちに行ってくれないと見えない」といらいらした蓮が男の股の間から建物を見ようとしたが、男の手は容赦なく蓮の肩を掴んだ。「いいか、うちで働けと言ったら、うちで働かなくちゃ駄目だ。立て!」
「いたたたた!父上がこれを聞くと、大変なことになるわ!誰か、助けて!」と身をよじって蓮は叫んだが、男は蓮を建物の方へ引っ張って行った。「お前の父親が来ても、すぐに片付けてやるさ。この辺は城の武士でも一人二人では来ない所だ、助けに来る奴などいるものか」
狐子の捜索
ゆきの部屋を出ると、狐子は狐の姿に化けてから台所へ向かって人間よりも速く走った。勝手口を抜け出すと、鼻を地面に近づけて蓮の匂いを見つけようとした。後ろからの「きゃあ!狐が台所にいた!」という叫びにも、「気にしないで、その狐はきっと狐子様か狐一様でしょう」という声にも構わず、匂いの手掛かりを辿って駆けて行った。
しばらくすると、狐子は塀の向こうにまで生い茂った大きな枝の桜の木の下まで来た。その木の周りに匂いが続いていないことを確認してから、猫の姿に化け、木を上り、塀の向こう側に下りた。
今度は犬の姿に化け、また蓮の匂いを見つけてから、匂いを辿って町に入った。(町人は城の者ほど狐に慣れていないから、その姿で城下町に入ると問題が起こるだろう)町に入ると、蓮の匂いは人々の行き来で掻き消されたのか、狐子は僅かに残った匂いを頼りにゆっくり進むしかなかった。十字路に来ると、方向を確認するために行ったり来たらしているうちに、さらに時間がかかってしまった。
蓮の匂い以外に何も気がつかないほど注意を鼻に集中していた狐子は無論、周囲の豊かな町並みが貧しく寂れてきたことにさえ気付く余裕はなかった。遠くから微かに聞こえる「誰か、助けて!」という金切り声が狐子の意識に触れたが、それがどこから聞こえて来たのか、蓮と関係があるのかさえ確信がないまま、一瞬足を止め、ちらりと辺りを見回したが、また鼻を地面に戻し何か手掛かりはないか捜し続いた。
ようやく、踏みつけられて泥だらけになった数枚の紙に辿り着いた。その匂いを嗅ぐと同時に、道端から「お前があの子を捜しに来たのなら、もう遅いな」という声がはっきり聞こえた。声をする方向を振り返った狐子は人間の姿に戻り、「あんたは…」と言いながら二階建ての家の壁に寄り掛かっている男を睨んだ。
助かった
「この辺は城の武士でも一人二人では来ない所だ、助けに来る奴などいるものか」と蓮を引きずりながら男が言った。その時、蓑を着た男が二人の前に急に立ちはだかった。「ここにいるかもしれん。とにかく、お嬢様をこちらによこせ」と言った。その声からはその男が、まだほんの若造であることが分かる。その若者は蓮の腕を掴んでいる男より背が低かったが、恐れる素振りも見せず男を見据えた。
「お前は何者だ?おい、野郎ども、この馬鹿野郎をやっちまえ」と男がいらだったように言い放つと、家の周りにうろついていた三人の荒っぽいならず者が「へい!」と言うなり、立ち上がり、棒や刃物を手に構えた。
蓑の若者はあざ笑うかのように、「三対一の勝負だな。面白い。では、そやつらの手並みを拝見といくか」と言い、さっと蓑を脱いだ。その下から殿の紋のついた服が現れると、蓮は息を呑んだ。もちろんこの若者はよく見知った者だった。
「狐一おじ!助かった!」と蓮は言い、自分を抑えている男を振り返った。「大変なことになるって言ったでしょう?狐一おじはとても強いのよ。あんな連中なんか足元にも及ばないわ」
「黙れ!わしに逆らうとどうなるかをこの若造に教えてやるぞ」と男は言い、蓮を激しく引きずり振り回しながら、玄関の方へ引っ張って行ったが、玄関に入る前に、後ろから折れた武器や三人の手下どもが次々と玄関先に放り込まれた。逃げていく女達の悲鳴と共に「さすが狐一おじ!」という叫びが聞こえた。
しばらく呆然と倒れた手下を見やってから、男は振り返った。すると、にこりと笑っている狐一が道の真ん中に一人立っている。「やれやれ。もっと強い相手を呼んでくれないなら、次は一対一の勝負になるらしいな。どうだ?かかって来い!」
でも、男はもう戦う気はないようだった。蓮を放して、鬼に追われたように逃げ出した。
「では、そやつが手下を集めて戻る前に帰ろう」と狐一が言ったが、蓮は左手を腰に当て、狐一の顔の前で右人差し指を横に振った。「狐一おじが戦いから逃げたことは今までないのに、私がやろうとしていたことをしないで帰れと言うの?それに、私が持って来た紙を踏んで汚すだなんて!」と叱った。
狐一は足元を見てから紙の上から足を退けた。「すまん。蓮姫を守ることだけ考えていた。蓮姫を酷い目に遭わせたくないから、できるだけ早く片付けなさい」
すると、蓮はあまり汚れていない紙を集め、元の場所に戻った。一方、狐一は、蓮が描いている家の壁に寄り掛かって蓮を見守った。
しばらくすると、倒れた手下が一人また一人と我に返ったが、狐一と一目見るや、慌てて逃げて行った。最後の手下が足を引きずって逃げるや否や、地面に鼻を当てた犬がまだ道の泥にまみれて置き去りになっている紙の方へ近寄った。犬が紙を嗅ごうとすると、狐一は声をかけた。「お前があの子を捜しに来たのなら、もう遅いな」と言うと、犬は女の姿に化け、狐一を睨みながら「あんたは…」と話しかけた。もちろん、狐子だった。
いらだちのあまりに口が塞がったのか、しばらく黙ってから狐一を叱り始めた。「どうして誰かに蓮ちゃんが城を抜け出したことを報告しなかったのか?ゆきちゃんを心配させちゃったのよ!」
でも、狐一の笑みは全然変わらなかった。ゆっくりと立ち上がり狐子に歩み寄りながら、「誰かに蓮姫の脱走はもうばれていたのに、狐子従姉ちゃんは門番の連中に何も訊かずに来たな。いいか、ゆき様を心配させないため、台所の下女達などが蓮姫が城を出るところを見ると、ゆき様に何も言わないで門番に報告するという命令がある。すると、俺が蓮姫を見守りに行くことになっているんだな。あの子が外でやりたいことをやっちまうと、すぐに城に帰り、数週間は部屋から出ようとしないぞ。しかし、外出を禁止したり、目的を遂げる前に帰らせようものなら、来る日も来る日も一生懸命抜け出そうとするに違いない。だから、このように扱った方がいいと我が殿がお決めになったのだ」と言った。
狐子の釣り上がった目が少しずつ優しくなった。狐子はやっと安心したのか、「なるほど」と答え、蓮の方へ視線を向かった。 「でもね、どうして蓮ちゃんが狐一に一緒に行こうと訊ねないの?」
狐一は首を振った。「ああ、いや、それは、それをしてみた時、蓮姫は自由が束縛されているように感じて苛立ったから、もうそんな気にはなれないんだな。だから、仕方なくいつも一人で脱出しようとしてるんだぞ。では、狐子従姉ちゃんは今はゆき様に蓮姫が無事でいることを報告しに帰るのか、蓮姫の気が済むまで俺と一緒にここで待つか?」
「ゆきちゃんを安心させた方がいいから、ではまた」と狐子は言うと、犬の姿に戻って、城へ向かって走った。
旅の勧め
しばらくして戻ってきた狐子は城の前に人間の姿に化け、ゆきの部屋まで急いだ。
ゆきの部屋に入ると、ゆきは子供達に囲まれ困った顔をして泣きながら、部屋の真ん中に座っていた。桜が「お母様、そんな顔をなさらないでください。椿や白菊を泣かせてしまいますから。狐子おばが蓮を捜しに行ったので、きっと…きっと無事に帰ってきますから」と、背中を撫でながら言っていた。
ゆきが狐子に気付くと、濡れた頬を拭いながら期待に満ちた眼差しを向けたが、すぐに蓮がいないことに気が付いた。「蓮?蓮はどこにいますか?蓮の身に何かあったのでしょうか?」と尋ねた。よほど心配だったのだろう。その声は震えて、かすれ気味だった
狐子はゆきの元に近寄り、膝をつくと、ゆきの顔を真っ直ぐに見詰めながら、「蓮ちゃんは無事です。狐一の奴がずっとついていますから。さっき蓮ちゃんは家の絵を描いていたから、きっとしばらくしたら帰ってくるでしょう」と言った。
ゆきは張り詰めていた緊張が緩んだのか、長い溜め息をつくと、「よかった…」と呟いた。
すると、狐子はゆきの手をぎゅっと握り、「昔はあんなに強気だったゆきちゃんが、いつの間にこんなに気弱になってしまったのかしら。あの頃のゆきちゃんならきっと子供達を心配させないように、もっと気丈に振る舞ったでしょうね」と言ったが、ゆきは口を挟んだ。「でも、あの時、私にはまだ子供はいませんでした。自分の子供が大変な目に遭うなんてことはありえなかったのです。例えば、もし蓮が一人で城を抜け出して城下町に行ったりしたら、私は本当にどうすればいいのか分かりません」とゆきが言うと、「自分が何もできない時には、子供達の前では、何も問題がないようなふりをした方がよいと思いますよ」と、ゆきの手を握り締めながら言うと、「ふぅ…」と、一度大きな溜め息をつき、「我が殿はゆきちゃんを甘やかしているようですね。問題の対処法を学ばせるというよりむしろ、問題があっても、それをゆきちゃんの目には触れないようにしているようですね。狐一の奴によると、蓮ちゃんが抜け出そうとしているのに誰かが気付いても、ゆきちゃんには何も言わないで門番に報告しなさいと命令があったそうですよ。だからそういう時は、狐一が蓮ちゃんのお見守りについて行くそうですわ」と言うと、ゆきはキッと目を釣り上げた。「なんてこと!旦那様に抗議しないと!」本来の気の強いゆきがやっと戻って来たようだった。
「それでこそゆきちゃんだわ!頑張って!暇があったら、必ず応援しに来ますわ」と狐子が明るく言ったが、急に顔曇らせ、「でも…今は主人の世話に戻らないと。お元気で」と軽く頭を下げ、立ち去った。
狐子が去ってから、ゆきはしばらく無邪気に遊んでおり、幼い娘達を宥めていた。百合は寝転がりながら、一冊また一冊と本をバラバラめくっていた。最後の本をぱたんと閉じると、「お母様、お祖父様が亡くなっても、私達はお祖父様の城を――いえ、今は叔父様の城と呼ぶべきかしら?――訪ねますか?お祖父様の蔵書の中に読みたい本があったのです。それを読まないと、私が書きたい話が上手く描けないようですから」と訊ねた。
ゆきはお腹を撫でながら、「私はこの状況では行けませんね。それに、家老殿はまだご病気ですから、お父様も旅などお考えではないでしょう」と答えた。
すると桜が「お母様!私が責任を持って妹達の面倒を見るから、どうか叔父様を訪ねることを許してくれませんか?お願いします」と言うと、それに続いて桃や李、百合、鈴からも「私も行きたい!」「許してください!」「従兄弟達と遊びたい!」「あそこの美味しい料理を学びたい!」「お願い!」などと、口々に自分の希望を言い出した。その一方で、椿と白菊は「お母ちゃまと残りたい」と言った。
ゆきは苦笑いをしながら、「まあまあ、そんな旅は私が一人で許すことはできません。でも、これについてお父様とお話しします。約束です」と言うと、「飛び出した小鳥が巣に戻って来ました」と、戸口から声が聞こえ、襖が開き、狐一が、紙の束を胸に抱えている蓮と共に現れた。それを聞いた蓮は、小鳥を呼ばれたのが気に障ったのだろう。彼をきっと睨んだ。「狐一おじ、私を小鳥などと呼ぶのはやめてくれませんか?もう十四歳だし、すぐに狐子おばより背が高くなるから、ほぼ大人ではありませんか?」と言うと、狐一は、「もっと大人らしく振る舞えるようになれば、やめます」と、蓮に言葉を返した。
ゆきは蓮に歩み寄り、「お帰りなさい。大切な紙が汚れて皺が寄ってしまったようですね。どうしましたか?」と訊きました。
蓮は俯き、「ただいま。特に何も起こりませんでした。何もありません。ただ、狐一おじの馬鹿がなぜか私の大切な紙を踏みつけました」と呟いてから、ゆきの顔を見上げ、「お母様、皆どこかへ行くのですか?廊下を歩いている時、皆が『行きたい』と言っているのが聞こえました」と続けた。
「行くかどうかはまだ決めていませんが、この子達が行きたい所は叔父様の城です」とゆきが言うと、蓮は「私も行きたい!あっちの町はまだ作っていないし、描くことさえしていない建物が山ほどあります」と目をぎらぎらと輝かせた。
「でも、また城を抜け出した罰としてお父様が行くことを許さないでしょう」とゆきが言うと、蓮の目から輝きが消えた。「だって、私が行かないとその建物が作れません!お父様を説得して!お願いします!」と頼んだ。
「貴方が繰り返し城を抜け出すことを、お父様も私も快く思っていないことを知っているはずでしょう?この状況で、貴方が行くことを許すはずはありません」とゆきは言ったが、蓮の落ち込んだ表情を見ると、「でも、出発まで一度も抜け出さずにいられたら、許してくれるようにお父様を説得しましょう」
蓮は紙に描いた家の絵を覗き、「これを作るには多分一〜二週間くらいしかがかからないでしょう。その後何も作るものがなかったら、この指をどうすればいいの?」と片手を伸ばしてじっと見つめながら呟いた。
「ところで、あの大名は桜に相応しくない夫だとお父様を説得しようと思います。もし、それでも桜が嫁ぐことになったら、桜の部屋は百合にでも与えることにしましょう」ゆきの言葉が胸に刺さったのか、蓮はしばらく呆然と母の顔を見つめた。「な…何?で…でも、部屋を広げられないのなら、この家を置く場所はいったいどこにありますか?床も棚ももう家でいっぱいですから…」と言ったかと思うと、突然瞳の奥に火がついたように叫び始めた。「そうだ、棚!もっと棚が必要!棚を作るしかない!棚!」と脇目も振らず部屋から飛び出し、城の宮大工の詰所へ向かって駆け出した。
狐一は首を振り、ゆきに歩み寄り、「あの子の気性はちょっと…」とゆきの耳元で呟いた。すると、ゆきは「そうですね」と静かに答え、狐一を廊下に連れて行った。「旦那様と話す前に、町で起こったことを聞いておきたいのです」と言い、狐一の報告を受けた。
殿との茶席
その晩、ゆきはお茶を点てると茶碗を殿に差し出しながら声をかけた。「旦那様、ちょっとお話ししたいことがありますが」
殿は俯き、「蓮のことか?狐一の奴が言うには、お前はそのことについて快く思っていないようだな。すまん」と謝った。
「私が喜ぶとでも思っていらっしゃいましたか?この状況はいつからなのですか?」ゆきの静かな言葉の裏に怒りが感じられた。
殿は顎をさすりながら、「いつからだと?ふむ。蘭が病気で、お前が蘭のことしか頭になかった時からだな。もう一年くらい前になるだろう。あの時、私は蓮のことについてお前と話し合いたかったが、お前にはそんな余裕はないように思えた。それで、自分であの子の扱い方を決める以外仕方がなかったのだ。その後のことは本当に申し訳ないと思っている」と言った。
ゆきはしばらく黙って殿の顔を眺めた。そして、「分かりました。蓮のことはまた後で話し合うとして、まずは桜のことについてです。すでに側室が四人もいる人に嫁ぐなんて、いくらお相手が一国の主であっても、我が殿の長女には相応しくないのではないでしょうか?もっと相応しいお相手はいらっしゃらないのでしょうか?」と尋ねた。
殿は溜め息をつき、「近隣諸国の状況を見ても分かるだろう。この辺りの国が手を組まないと、一国また一国と関東の連中に潰されてしまうのだ。父上の時代の同盟を再び確固たるものにするには、この縁組みであの方と手を組むより他に道はあるまい。桜との結婚の意をあの方から告げられた時、正直なところ、ついていると思った。だが、何か引っ掛かるところがある。それでまだあの方にはっきりとした返事はしていないのだ」と答えた。
ゆきは、「あの方に、このまま跡継ぎがお生まれにならない場合、あの方の弟君が城を継ぐことになりましょう。確か、弟君の長男は桜より少し年上で、まだ独り身だったと思いますが。ゆくゆくは城主になる可能性の高いその方に嫁がせる方が桜にとってもお互いの国にとってもよい選択なのではないでしょうか」と訊いた。
殿はしばらく考え込んでから、「ふむ。あの方がそれを受け入れてくれるだろうか。そうなるとよいのだが」と言った。
ゆきは、「よかった。もう一つ話し合いたいことがあります。百合をはじめ、年長の娘達は鈴までもが義弟の城を訪ねたがっています。私も旦那様も旅ができないことを説明したのですが、桜は自分が責任をもって妹達の面倒を見るので許して欲しいと言っています。いかが思われますか?」と訊ねた。
殿は、「決める前に弟と相談する必要があるな。打診する必要がある。彼が承知しないと無理だな。旅をするなら、狐一の奴に道中のことは任せればいいが、蓮が行かないなら…難しい」と答えた。
ゆきは頷き、「そのことでしたら、蓮もとても行きたがっていて、自分も行けるのなら、以後一切城を抜け出しはしないと約束してもいいと思っているようです。そして、桜の部屋を使うことはできないと説明すると、棚を作りに宮大工の所へ駆けて行ってしまいましたけれど。姫には相応しいたしなみではありませんが、もしかして蓮が大工の下で工芸品などの細工にでも興味が向いてくれれば、城を抜け出すことが減るかもしれません。蓮は細かい手仕事が好きですからね」と言った。
殿は首を傾げ、「ふむ。あの子が抜け出すことをやめるならばよかろう。考えてみる」と言った。
旅の準備
次の朝、殿は桜と結婚したいという大名と弟の元へ使者を送った。また、宮大工を呼び出し、蓮に工芸品作りを勧めるように命令した。
そして、狐一も呼び出し、「娘達は弟の城に行きたがっているようだ。弟が了解してくれるかどうかはまだ分からないが、いずれにしても旅の準備を始めなさい」と命じた。
狐一は一礼すると言った。「恐れながら、妖怪が暴れているという噂が広まっております。今は旅をしない方がよろしいのではないでしょうか」
殿は興味なさそうに手を振った。「この三年間というもの、お前はずっとそんなことを言っているぞ。だが、今まで妖怪がこの国に現れたことなど一度たりともなく、届いたのは皆狐のいたずらの話ばかり。そんな噂でいちいち私を煩わせないでくれ」
狐一は不機嫌そうに黙ったまま頭を下げ、退いた。殿の部屋から続く廊下を歩いていると、桃と李が駆け寄ってきた。
双子の一人が「狐一おじ!父上は旅を許してくれたのですか?」と訊くと、もう一人は「今度は、私達は武士のように馬に乗りたいの!一年間馬に乗る練習をしてきたんですもの、駕籠になんて乗りたくないわ」と興奮しながら言った。そして、二人が共に「お願い!お願い!」と叫んだ。
狐一は首を振った。「それは私が決めることではありませんよ。殿に訊いてみて下さい」と言うと、双子は殿の部屋へ駆け出した。首を振りながら廊下を歩いている狐一が階段に着く前に、後ろから「やった!」と言う叫びと共に駆け寄ってくる足音が聞こえた。双子は狐一の周りで一躍りし、「父上が許してくれた!」と言ってから階段を駆け下りた。
「伯母上の子孫はみんな変わっているな。狐と人間の血が混じったせいかな。広子、俺らの子供はそのようにならないように願いたいものだ」と狐一は一人呟き、思わず苦笑した。「まあ、ここに来るまで、俺もそのように振る舞っていたがな。責任を持たされるようになってから俺も変わったな」
宮大工の詰所では、蓮が棚の材木を選んでいるところだった。殿の部屋から戻って来て、蓮の様子を見た大工が、「お嬢様、そんな大変な仕事をご自分でなさるのはおやめください」と言ったが、蓮はただ「忙しいから放っておいてよ」と答えた。
大工は黙り込んだ。そして、卓から紙を取り上げた。「お嬢様、我が殿は工芸品を作るように私にご命令なさいました。この図面のように作りたいのですけれど、この年を取った目では若者の頃のようには細かい部分がもはや見えませんので、できる自信がありません。どうか、私のこの細工を手伝っていただいて、お嬢様のその力仕事を私めにお任せ下さるならば本当に助かります」と言いながら、紙を蓮の前に差し出した。
蓮は紙を払い除け、「忙しいと言ったでしょ…」と言いかけたが、ふいに目が丸くなって、蓮は大工の方へ振り向き紙を掴もうとした。「ちょ…ちょっと待って!その絵をもう一度見せてちょうだい。こんなに見事な意匠は生まれてから一度も見たことがないわ。これはぜひとも私がこれを作らなくては」と言ってから、蓮は絵をよく検討しながら、必要な道具を持って来るように口早に大工に言いつけた。
そうして蓮は熱心に工芸品を作り始めた。そのように数日間が経った頃、殿は弟と使者のやり取りを繰り返し、訪問の日程などを決めた。
桜と結婚したいという大名との交渉も上手く言った。大名は桜を大名の甥に嫁がせるという代案に同意し、見合いの席を設けてくれるよう依頼して来た。殿はすぐにそれに同意し、日程は娘達が帰って来る頃と決めた。
狐一は旅の準備に忙しかった。護衛の家来や駕籠舁きや荷運びなどの人選、宿の手配など、旅の前に色々なことをしなければいけないのである。
姉妹達も思い思いの荷作りをした。桜は綺麗な着物、蓮は大切で小さなおもちゃの家、双子は懐に隠し持てる刃物、百合は本、鈴はたくさんのお菓子を準備していた。