ゆきの部屋を出ると、狐子は狐の姿に化けてから台所へ向かって人間よりも速く走った。勝手口を抜け出すと、鼻を地面に近づけて蓮の匂いを見つけようとした。後ろからの「きゃあ!狐が台所にいた!」という叫びにも、「気にしないで、その狐はきっと狐子様か狐一様でしょう」という声にも構わず、匂いの手掛かりを辿って駆けて行った。
しばらくすると、狐子は塀の向こうにまで生い茂った大きな枝の桜の木の下まで来た。その木の周りに匂いが続いていないことを確認してから、猫の姿に化け、木を上り、塀の向こう側に下りた。
今度は犬の姿に化け、また蓮の匂いを見つけてから、匂いを辿って町に入った。(町人は城の者ほど狐に慣れていないから、その姿で城下町に入ると問題が起こるだろう)町に入ると、蓮の匂いは人々の行き来で掻き消されたのか、狐子は僅かに残った匂いを頼りにゆっくり進むしかなかった。十字路に来ると、方向を確認するために行ったり来たらしているうちに、さらに時間がかかってしまった。
蓮の匂い以外に何も気がつかないほど注意を鼻に集中していた狐子は無論、周囲の豊かな町並みが貧しく寂れてきたことにさえ気付く余裕はなかった。遠くから微かに聞こえる「誰か、助けて!」という金切り声が狐子の意識に触れたが、それがどこから聞こえて来たのか、蓮と関係があるのかさえ確信がないまま、一瞬足を止め、ちらりと辺りを見回したが、また鼻を地面に戻し何か手掛かりはないか捜し続いた。
ようやく、踏みつけられて泥だらけになった数枚の紙に辿り着いた。その匂いを嗅ぐと同時に、道端から「お前があの子を捜しに来たのなら、もう遅いな」という声がはっきり聞こえた。声をする方向を振り返った狐子は人間の姿に戻り、「あんたは…」と言いながら二階建ての家の壁に寄り掛かっている男を睨んだ。