しばらくして戻ってきた狐子は城の前に人間の姿に化け、ゆきの部屋まで急いだ。
ゆきの部屋に入ると、ゆきは子供達に囲まれ困った顔をして泣きながら、部屋の真ん中に座っていた。桜が「お母様、そんな顔をなさらないでください。椿や白菊を泣かせてしまいますから。狐子おばが蓮を捜しに行ったので、きっと…きっと無事に帰ってきますから」と、背中を撫でながら言っていた。
ゆきが狐子に気付くと、濡れた頬を拭いながら期待に満ちた眼差しを向けたが、すぐに蓮がいないことに気が付いた。「蓮?蓮はどこにいますか?蓮の身に何かあったのでしょうか?」と尋ねた。よほど心配だったのだろう。その声は震えて、かすれ気味だった
狐子はゆきの元に近寄り、膝をつくと、ゆきの顔を真っ直ぐに見詰めながら、「蓮ちゃんは無事です。狐一の奴がずっとついていますから。さっき蓮ちゃんは家の絵を描いていたから、きっとしばらくしたら帰ってくるでしょう」と言った。
ゆきは張り詰めていた緊張が緩んだのか、長い溜め息をつくと、「よかった…」と呟いた。
すると、狐子はゆきの手をぎゅっと握り、「昔はあんなに強気だったゆきちゃんが、いつの間にこんなに気弱になってしまったのかしら。あの頃のゆきちゃんならきっと子供達を心配させないように、もっと気丈に振る舞ったでしょうね」と言ったが、ゆきは口を挟んだ。「でも、あの時、私にはまだ子供はいませんでした。自分の子供が大変な目に遭うなんてことはありえなかったのです。例えば、もし蓮が一人で城を抜け出して城下町に行ったりしたら、私は本当にどうすればいいのか分かりません」とゆきが言うと、「自分が何もできない時には、子供達の前では、何も問題がないようなふりをした方がよいと思いますよ」と、ゆきの手を握り締めながら言うと、「ふぅ…」と、一度大きな溜め息をつき、「我が殿はゆきちゃんを甘やかしているようですね。問題の対処法を学ばせるというよりむしろ、問題があっても、それをゆきちゃんの目には触れないようにしているようですね。狐一の奴によると、蓮ちゃんが抜け出そうとしているのに誰かが気付いても、ゆきちゃんには何も言わないで門番に報告しなさいと命令があったそうですよ。だからそういう時は、狐一が蓮ちゃんのお見守りについて行くそうですわ」と言うと、ゆきはキッと目を釣り上げた。「なんてこと!旦那様に抗議しないと!」本来の気の強いゆきがやっと戻って来たようだった。
「それでこそゆきちゃんだわ!頑張って!暇があったら、必ず応援しに来ますわ」と狐子が明るく言ったが、急に顔曇らせ、「でも…今は主人の世話に戻らないと。お元気で」と軽く頭を下げ、立ち去った。
狐子が去ってから、ゆきはしばらく無邪気に遊んでおり、幼い娘達を宥めていた。百合は寝転がりながら、一冊また一冊と本をバラバラめくっていた。最後の本をぱたんと閉じると、「お母様、お祖父様が亡くなっても、私達はお祖父様の城を――いえ、今は叔父様の城と呼ぶべきかしら?――訪ねますか?お祖父様の蔵書の中に読みたい本があったのです。それを読まないと、私が書きたい話が上手く描けないようですから」と訊ねた。
ゆきはお腹を撫でながら、「私はこの状況では行けませんね。それに、家老殿はまだご病気ですから、お父様も旅などお考えではないでしょう」と答えた。
すると桜が「お母様!私が責任を持って妹達の面倒を見るから、どうか叔父様を訪ねることを許してくれませんか?お願いします」と言うと、それに続いて桃や李、百合、鈴からも「私も行きたい!」「許してください!」「従兄弟達と遊びたい!」「あそこの美味しい料理を学びたい!」「お願い!」などと、口々に自分の希望を言い出した。その一方で、椿と白菊は「お母ちゃまと残りたい」と言った。
ゆきは苦笑いをしながら、「まあまあ、そんな旅は私が一人で許すことはできません。でも、これについてお父様とお話しします。約束です」と言うと、「飛び出した小鳥が巣に戻って来ました」と、戸口から声が聞こえ、襖が開き、狐一が、紙の束を胸に抱えている蓮と共に現れた。それを聞いた蓮は、小鳥を呼ばれたのが気に障ったのだろう。彼をきっと睨んだ。「狐一おじ、私を小鳥などと呼ぶのはやめてくれませんか?もう十四歳だし、すぐに狐子おばより背が高くなるから、ほぼ大人ではありませんか?」と言うと、狐一は、「もっと大人らしく振る舞えるようになれば、やめます」と、蓮に言葉を返した。
ゆきは蓮に歩み寄り、「お帰りなさい。大切な紙が汚れて皺が寄ってしまったようですね。どうしましたか?」と訊きました。
蓮は俯き、「ただいま。特に何も起こりませんでした。何もありません。ただ、狐一おじの馬鹿がなぜか私の大切な紙を踏みつけました」と呟いてから、ゆきの顔を見上げ、「お母様、皆どこかへ行くのですか?廊下を歩いている時、皆が『行きたい』と言っているのが聞こえました」と続けた。
「行くかどうかはまだ決めていませんが、この子達が行きたい所は叔父様の城です」とゆきが言うと、蓮は「私も行きたい!あっちの町はまだ作っていないし、描くことさえしていない建物が山ほどあります」と目をぎらぎらと輝かせた。
「でも、また城を抜け出した罰としてお父様が行くことを許さないでしょう」とゆきが言うと、蓮の目から輝きが消えた。「だって、私が行かないとその建物が作れません!お父様を説得して!お願いします!」と頼んだ。
「貴方が繰り返し城を抜け出すことを、お父様も私も快く思っていないことを知っているはずでしょう?この状況で、貴方が行くことを許すはずはありません」とゆきは言ったが、蓮の落ち込んだ表情を見ると、「でも、出発まで一度も抜け出さずにいられたら、許してくれるようにお父様を説得しましょう」
蓮は紙に描いた家の絵を覗き、「これを作るには多分一〜二週間くらいしかがかからないでしょう。その後何も作るものがなかったら、この指をどうすればいいの?」と片手を伸ばしてじっと見つめながら呟いた。
「ところで、あの大名は桜に相応しくない夫だとお父様を説得しようと思います。もし、それでも桜が嫁ぐことになったら、桜の部屋は百合にでも与えることにしましょう」ゆきの言葉が胸に刺さったのか、蓮はしばらく呆然と母の顔を見つめた。「な…何?で…でも、部屋を広げられないのなら、この家を置く場所はいったいどこにありますか?床も棚ももう家でいっぱいですから…」と言ったかと思うと、突然瞳の奥に火がついたように叫び始めた。「そうだ、棚!もっと棚が必要!棚を作るしかない!棚!」と脇目も振らず部屋から飛び出し、城の宮大工の詰所へ向かって駆け出した。
狐一は首を振り、ゆきに歩み寄り、「あの子の気性はちょっと…」とゆきの耳元で呟いた。すると、ゆきは「そうですね」と静かに答え、狐一を廊下に連れて行った。「旦那様と話す前に、町で起こったことを聞いておきたいのです」と言い、狐一の報告を受けた。