その後、若殿は来る日も来る日も朝から晩まで執務室に籠り、政に追われていました。一方、ゆきは城の女達と親しくなろうとしましたが、彼女達はゆきを大名の娘ではなく百姓の娘だとでも言いたげに、ゆきを避け、殿の妻として扱いませんでした。
ある日、ゆきが城の庭を一人で歩いていると、日々の悩みや辛いことなどがふいにぐるぐると頭を回り、ゆきはついに岩陰に腰を下ろし泣き出してしまいました。
ゆきがしくしく泣いていると、後ろで聞き覚えのある声がしました。「大切な人よ、どうして泣いているのですか。まだ幸せに巡り会えないのですか」
ゆきは顔を上げ、後ろを振り向くと、そこにはあの見覚のある動物が立っていました。「お久しぶりですね、ゆきさん」声の主は、狐でした。
ゆきは、「びっくりしました。こんなところにいらっしゃるとは、思いもしませんでした。でも、またお会いできて嬉しいです。立ち話もなんですから、あちらの茶室でお茶を一服しませんか?」と言いました。
すると狐は手を振りながら「いえ、いえ、結構です。私はここにお茶を飲みに来たわけではありませんから…ここに座って、あなたの悩みをお聞きしましょう」と、狐は優しくゆきに言いました。その言葉を聞いたゆきは、岩にへたり込み、堰を切ったように話し始めました。
「生活のすべてがあまりにも目まぐるしく変わっていく上に、相談できる友達もおりません。殿は優しい方ですが、昼間は忙しくて私は蚊帳の外です。新しい家老は政治についていろいろと教えてくれますが、やはり私より殿のそばでお仕えしていますので、私はいつも自分が役立たずで、みんなの足手まといなような気がしています」と、ゆきはさめざめと泣き始めました。
狐は「生活の変化についていけない気がする時は、静かな場所で気晴らしでもしてみたら良いですよ」と言いました。
「気晴らしといっても、どんな事をすればいいのですか」と、ゆきは顔を伏せながら言いました。
狐が、「いろいろあるでしょう。縫い物とか、料理とか、読書とか…」と言うと、ゆきは顔を上げ、「読書ですか。本を読むのは大好きです。でも…」そう言うと、ゆきはまた俯きました。「でも、このごろは読むといっても、政治に関したものばかりしか読んでいなくて…」
「この城には面白い本がありませんか」と狐は聞きました。
「ないようです。前の大名は読書が好きではなかったようなので」とゆきは答えました。「義父の城にはたくさん面白い本があるのですが」
「お父上に本を貸していただけるよう、お願いの手紙を書いてみてはどうでしょう?。あるいは、この町の商人をあたって面白い本を探してみませんか?」と狐は提案しました。
ゆきは「この町の市場では、まだ買い物をしたことがありません。誰も私と一緒に出かけてくれないのです。狐殿、どうか、私と一緒に行ってくださいませんか?」と訊きました。
狐は、「ご主人と一緒に行った方がいいのでしょうが、それが無理なら私があなたと行きましょう。でも、その前に他の悩みについても伺いましょう。城の女性達とは上手くやっていますか」と、目を細めながら訊ねました。その瞳は、まるでゆきの全てを分かっているように見えました。
するとゆきは、少し間を置いた後、伏目がちに答えました。「…いいえ、皆私を避けているようです。私が百姓育ちだからと言って蔑んだり、着ている着物が殿の妻に相応しくないと悪口を言ったり。そういう訳で、皆、私と話もしてくれません」
狐は、ふうむと頷きながら、「茶道家のような格好をしていたのでは、殿の妻として相応しくないでしょうね。買い物に行った時、ついでに着物も買いましょう。お父上の都には、誰か顔見知りがいますか?」と言いました。
ゆきは、「あの…温泉の女将さんがいます」と答えました。
狐は、「女将さんですか。女将さんなら人を使うことが出来るでしょう。あなたの身の回りの世話をしてもらうために、誰かに城で働いてもらうようお願いすれば良いかもしれませんよ。それに、私の娘のうちの一匹が人間に非常に興味を持っています。もうすぐここへ訪ねてくると思います」と言いました。
それを聞いたゆきはばああっと笑顔になり、「娘さんがここへ訪ねてくるなんて、楽しみです」と答えました。
狐は、「他にも何か悩みがあるのではないでしょうか?例えば政治のことなど。あなたはまだお若い。確かお年は十七を抑えて間もないはず。あなたが男であって、生まれた時からずっと政治のことを勉強してきたのなら、国を治めることは何の問題もないのでしょうが、あなたには、まだまだ経験が足りません。女が国を治めるなどということは非常に稀なことですよ。男であるご主人が自分で政務を執りたがるのは自然なことです。難しい問題ですね。しかし、もしあなたがこのまま勉強を続け、ご主人と家老との評議に出席し、気の利いた質問や良い提案が出来るようになれば、そのうち政治の深い部分にまで参加することを許されるかもしれませんよ」と言いました。
ゆきは「そうですね。みんなと仲良くすることが出来るようになれば、この胸の痛みや、吐き気なども治るかもしれません」と言いました。
狐は、「胸の痛みや吐き気…??このようなことを私から申すのは不躾ではありますが、一番最近に来た月のものはいつ頃だったのでしょう?」と聞きました。
ゆきは、「あの、祝言の前でした…二ヶ月ほど前だったでしょうか」と答えると、狐は、「ゆきさん、貴方が情緒不安定なのも無理はない。その吐き気はきっとつわりです。あなたは妊娠しているのです」と言いました。
ゆきは、飛び上がって驚きました。「妊娠?私のお腹に赤ちゃんがいるのですか…??」しばらく呆然としていたゆきでしたが、思いだしたように「今すぐ殿にお伝えしなければいけません!」と、城へ振り向いて駆け出そうとしました。そのゆきの前には狐がもう歩道をふさいでいました。
「待って、待ってください」と狐は言いました。
「なぜ止めるのです!早く、早くこのことを殿にお伝えしなければ!!」と半ば錯乱状態にあるゆきは狐を避けて城の入口へ向かって駆け出しました。しかし、その途中、何かに気がついたかのように、足を止めて、見下ろしながら手をお腹に当て、再び小走りで進みました。
狐は首を振りながらくすくすと笑いました。「百年近く生きているのに、まだまだ人間も女も分からないな」と呟き、ゆきについて行きました。