しばらくして、ゆき達は庄屋の家に着きました。庄屋の妻が玄関先で、「ゆき様、拙宅にようこそおこしくださいました。おかえりなさいませ、あなた」と笑顔で出迎えました。
「ただいま」という庄屋の声に続き、ゆきが「お邪魔します」と言って、家の中に入るやいなや、あっという間に、ゆきと一緒にいた庄屋の孫たちを、その兄弟・従兄弟たちが取り囲みました。しばらくして、「何をしてたの?」とか、「ゆき様はどんな人?」と話す声がその人垣の中から聞こえました。その後、ゆき達と一緒にいた庄屋の孫息子は、ゆきの後ろから入ってきた狐子のところに来て手を掴み、「お姉ちゃん、市場の時のように、またおかしな顔をして」と狐子に言って、子供たちの中に引っ張って行きました。程なくして、狐子の百面相を見ている庄屋の孫達の間から笑いの混じったはしゃぐ声が聞こえてきました。そんな楽しそうな声を聞きながら、庄屋の妻は娘たちに手伝わせながら食事の支度をしました。湯気が、美味しそうな匂いと共に、台所から漂ってきました。ふと、ゆきはおばあさんと一緒に住んでいた頃のことを思い出しました。貧しかったけれど、おばあさんと一緒で楽しかった日々…。そんな懐かしい思い出に浸っていると、庄屋の妻と、娘が「ゆき様のお口に合うか分かりませんが」と言いながら、お盆に食事を載せて持ってきました。
ほかほかの炊き立てご飯、魚や貝の煮付け、お漬物、そして沢山の山菜類、おみおつけも、まだ湯気が立っています。海の幸、山の幸をこんなにも揃えることがどれだけ大変なことか、ゆきにはよく分かっていたので、尚一層、庄屋の妻の心遣いが心に染みました。ゆきはそれを心からありがたく、美味しく頂きました。
食事が終わった後で、ゆきは庄屋に、「庄屋殿は読書家だとお聞きしたのですが」と訊ねました。
庄屋は、「それほどではございませんが、時々本を読むのを楽しみにしております」と答えました。
ゆきは、「前に申し上げましたが、『源氏物語』のような本を市場で探していたところ、呉服屋さんが、庄屋殿に聞いてみたら良いと教えてくれました」と言うと、庄屋は、「それでしたら、家内とお話になるのが宜しいかと存じます」と教えました。
ゆきは、『源氏物語』についての助言がもらえ、とても嬉しくなり「このお礼というわけではないのですが、何か私にお役に立てることがありますか。何か力になれたら嬉しいのですが」と、庄屋に尋ねました。
すると庄屋は、神妙な面持ちで、「この町から唯一村へ通じている道のことですが…。ここ数年で荷車が通れないほど悪くなったそうでございます。整備もされず、大雨で押し流されたり、沿道の木々が生い茂ってきたりして、道幅が狭くなっている箇所もあると聞いております。百姓達は作物をこの町へ運ぶのに大層難儀をしているようでございます」と言いました。
百姓育ちのゆきは、百姓達の苦しみを聞き、胸を痛めました。「そうですか。ずいぶん苦労されているのですね…。殿に必ず報告しておきます。一刻も早い改善が必要ですね」それから、二人は国について話し込みました。囲炉裏の火が消えそうになるまで、二人の会話は、途切れることなく、続きました。
やがて、興奮していた孫達も一人、二人とあくびをし始め、一人ずつ、布団に寝かされました。狐が「失礼ですが、もう夜も遅うございます。殿がゆき殿のお戻りをお待ちかねかと存じますが、よろしいのでございましょうか」と二人の会話に口を挟むと、ゆきはふと本の事を思い出し、庄屋の妻にそのことについて訊ねてみました。
庄屋の妻は、数十冊の本がある部屋にゆきを案内しました。驚くゆきを横目に、庄屋の妻は、「どうぞ何冊でもお持ちください。ゆき様のお役に立てるならば、こんなに嬉しいことはございません」庄屋の妻の言葉に心を打たれたゆきが、「本のお礼に、何か私に出来ることがあるでしょうか?」と聞くと、妻は「お礼ですか…?」と、ゆきの思いがけない申し出に驚いた顔をしていましたが、しばらくして、「ゆき様は有名な茶道家でいらっしゃるということをお聞きしました。もしゆき様のお点前を拝見させていただけたら大変嬉しいのですが」と、少しはにかみながら伺いました。
ゆきは「もちろん、茶道具をしばらく借りてもよかったら、皆に見せます。茶道がつまらないなら、茶道具と関係なく、きっと私のせいでしょう」と言い、皆の前でお茶を点てました。それは、見る者を魅了する、素晴らしい所作でした。その後で、ゆきは庄屋の妻の助けを借りながら面白そうな本を選び、狐たちと一緒に城へ戻りました。