第三十二章
呉服屋の中
しばらくして、ゆき達は市場に着き、そこで呉服屋を探しました。思いのほか早く見つかりました。ゆきが「ごめんください」と中に入ると、「いらっしゃいませ!きれいな反物がたくさんございますよ」と、奥から優しそうな初老の男性が出てきました。
ゆきが、「これと同じような着物を仕立てることはできますか」と、狐子の着物を指差し訊ねると、呉服屋は驚いたように、「このような仕立ては初めて見ました。恐らく、京の新作なのでございましょう。私どもは呉服屋ですので反物の扱いには自信がございますが、そのような高級な、作ったこともない品を上手く仕立てられるかどうか…。しかし、私の兄はこの町一番の仕立て屋でございます。兄なら仕立てることができるでしょう。ゆき様の採寸をした後に、お連れの方のお着物をしばらくお貸しいただければ、数日後には、同じような着物をお届けできるかと存じます。お待ちいただく間、お連れ様にはこちらにございます、お好きな着物をお召しになって頂ければよろしいかと存じます」と言いました。
狐子は嬉しそうに、「それでは、ご好意に甘えさせて頂きます」と、いそいそと店の着物を選び始めました。
ゆきが、「あの、なぜこんなに親切にしてくださるのですか?」と訊ねると、呉服屋は、「以前、ゆき様がこの町にいらっしゃった時、私は駕籠を降りて演説をされたゆき様のお顔を拝見し、お声を聞いていたのでございます。先ほど、あなた様がこの店に入っていらした時より、その時の女性とずいぶん似たお方だと思っておりました。そして、今しがたお声をお聞きし、ゆき様に間違いないと確信いたしました。私はあの時のお話に、たいそう心を打たれ、確信したのです。ゆき様は我々の味方だと。そのようなお方からのご注文に、私としましては精一杯のことをしない訳にはいかないでしょう」と、微笑みながら答えました。さらに呉服屋は、「私はこれから少し失礼させていただき、兄を連れて参ります。どうぞこのままお待ちください」と、言い残して店から出て行きました。
ゆきは、「まあ、なんとご親切なお方でしょう…それにしても、あの方が私の顔や声を覚えておいでだとは、驚きだわ」と言いました。
狐はいたずらっぽく笑いながら、「店の外を見れば、その理由が分かりますよ」と、店の入り口の方を指差しました。
するとそこには、ゆきの顔を一目見ようとする人々が、押し合いながら店の外に集まっていたのです。
「父さん、ゆき様はあの女性?」
「とっても綺麗な人だね」
「どの店にあのお姫様がいるの?」
「どうやら、あの呉服屋にいらっしゃるようだよ」
「お父さん、お姫様の姿を見たいよう!肩車して!」
「ほら、息子や、上がって」
人々のざわめく声が店の外から聞こえてきます。ゆきがおそるおそる戸の陰から外を覗くと、そこにはゆきを一目見ようとする、人々がたくさん集まってきていました。ゆきは驚きと恥ずかしさのあまり、また顔を引っ込めてしまいました。「狐殿!あんなに大勢の人達がこっちを見ているわ。どうしましょう」
狐は、笑いながら「そんなにおろおろするものではありませんよ。岩の上で御自分の意見を述べられていたあの時と同じように、もっと堂々としていらっしゃればよいのです」と言いました。
ゆきは、「あの時と今とでは全然違います。今からこの人だかりの中を歩かなくてはならないなんて。それに、あの時は義父上の家臣が私と共に旅をしてくださいました。しかし今は私とあなただけなのですよ」と答えました。
狐は、「まあまあ。そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。あの声を聞いてみてください。彼らはただ、ものめずらしいだけなのです。その上、ゆき殿は一人ではありません。狐が二匹」
「二人!」と、店の奥から、狐子が狐の言葉を遮って叫びました。
狐は狐子をちらっと見て続けました、「…側にいます。狐が一匹で」
「一人!」
「百人の家臣が守っているより安全です。何があっても、我らがいれば、二百人の兵より心強いですよ」
狐子はゆきのそばに来ました。「父上の言う通りよ。それより、この着物はどう?」
ちょうどその時、呉服屋が兄の仕立て屋を連れ、戻って来ました。そして、ゆきの採寸が始まりました。