第六十九章
姫の話
家老が家に着いて中に入ると、姫はその中で待っていました。「おばさま、おはようございます。恐れながら、お聞きしたい事がございます」と家老は言いました。姫が頷くと、「おばさまはどうして人間とご結婚なさったのですか。狐子さんのように人間に興味がおありになったのか、それとも何か他に理由がおありだったのですか」と聞きました。
しばらくの後、姫は溜息をつきました。「この事は弟にさえ話していなかったのですが、あなたにも関係のある事なので、この際、良い機会ですから、お話ししておきます」
「当時の私は今の狐子よりは少しだけ年上だったでしょうね。人間には興味がなかった頃のことです。実を言うと、人間に会うたび嫌な感じがして、できるだけ早く離れるようにしていたのです」と、話し始めました。
「あの時まではね…」
「ある日、森の中の道中でのことですが、ふいに視界が開けました。そこには日本刀を携えている男がいました。彼は影と戦うように踊っていました。すぐに立ち去ろうと思いましたが、まるで見入られたかのごとく、その剣の動きから視線をそらすことができなかったのです」
「彼の周囲には呪いの気配もなく、また、私がどのくらいぼんやりと立っていたかも分からないのですが、気が付くと、彼は剣を鞘に納めているところでした。今思うと、あれが、呪いの解けた瞬間だったのかもしれません。すぐさま私は逃げましたが、背後から『誰ぞおったか?』と言う声が聞こえました」
「その夜、夢を見ました。刀だけが夢の中でただ踊っていました。歩いている内に、度々無意識にその場所に戻って行ってしまうことがありました。何度か足を運ぶと、またあの男がそこにいました。今度は刀ではなく、なぎなたと踊っていました」
「その時もまた、彼の動きから目を離せませんでした。しかし、彼が踊り終わるや否や、私はその場を離れました。その夜も、踊っている武器の夢を見ました」
「数週間、同じような状態が繰り返されました。いつも、男は違った武器を使っていました。だんだん、武器よりもその男の夢を見るようになりました。男は、私にとって異質のものというより、親しい者になっていきました。だんだん、彼に会いたいと思っている自分のことを自覚するようになりました」
「ある日、彼が踊り終わると、私は逃げる代わりにこの姿に化けて、木の後ろから姿を見せました。私は人間のことがあまり分かりませんでした。それまでに見た、一番綺麗な着物を着ることにしました」
「私を見ると、彼は膝をついて、『姫様』と言いました。私は、『何をおっしゃるのですか。私は姫などではございません。ただの、普通の女でございます』と答えましたが、彼は立ち上がりませんでした。『そのようなことは私には信じられません。あなた様はお姿も、お召し物も、話し方も姫君のようでいらっしゃいます』と彼は言い立てました」
「しばらくの間、彼に何を言えば良いのか分かりませんでした。やっと、『どうして度々こちらで武器と踊っておられるのですか』と聞きました。彼は驚いたように目を私に向けました。『踊っていたのではありません。ただ武器の練習をしているのです。下手ですから、誰もいないところで練習するのです』と言いました」
「『とんでもないことです!そんなに優美な動きを「下手」だなんて!それを見ていると、ついいつまでも見ていたいと思ってしまいます』と私は言いました。「先生を失望させたくありませんので、こちらで練習していたのです。このように下手な練習をあなた様にお見せしてしまった不埒をお許しください』と彼は言いました」
「『それでも、私はあなたの練習が見たいので、ここに来ることを許してください』と私が言うと、彼はようやく頷きました。
「翌日、私がその場所に着き、人間の姿に化けると、すでにそこには草の上に布団が広げてありました。私は木の間から出てその辺りで躊躇っていると、男は布団を示しながら『どうぞそちらでお足を楽になさってください』と促しました。そして、彼はその日の練習を始めました。それが終わると、彼は私の側に座る許しを請い、私がそれを許したので、しばらく語り合いました」
「数週間、同じことが繰り返されました。練習後の会話はだんだん長くなりました。ある日、住んでいる村を私に見せたいと彼は言いました。その時はお断りしましたが、その後も、彼はその申し出を繰り返しました。とうとう、不安もありましたが、私は応じました」
「その日、彼が帰るとき、私は彼と一緒でした。私は、生まれて初めて、人間の村に入ったのです。そしてまた、その時までそれほど多くの人間に会ったことはありませんでした。彼以外の人間に会うと、まだ嫌な感じがしましたが、彼が私の側にいれば安心でした」
「家に着き、彼の家族に会いました。彼らに対しても嫌な感じがしました。しかし彼の妹の一人は嫌な感じがしませんでした」
「その妹以外は、私のことを嫌がっていました。それでも、その家族も私もお互いに丁寧に挨拶ができました」
「できるだけ早く去らなければと思っている時、その妹が台所から湯を持ってきました。お茶を淹れて私に茶碗を渡しました。お茶を一口飲むと、あっという間に嫌な感じが消えました。おまじないかと思いましたが、おまじないの気配はありませんでした」
「『素晴らしい』と言って、私は彼の父親に茶碗を渡しました。皆がお茶を飲み終わるころには、部屋の中の雰囲気はずっと心地良いものになっていました」
「彼が父親に徐々に切り出しました。『お父さん、この女の人と結婚したいんだよ』と言うと、『何だって!』と両親と私は同時に言いました。鼓動がドクンと脈打ちました。胸の奥から、『私もしたい』という小さな声が聞こえました」
「『息子や、このお嬢さんの家系は一体どこなんだろう?二人が毎日会っているのなら、お嬢さんはこの近くに住んでいるに違いない。しかし、この辺りの人々を全員知っているこの俺でも、今までこのお嬢さんに会ったことはなかった」
「『危ない!』と思いました。私は人間ではない――私は狐だ――と気付かれたくなかったのです。そう考えると、すぐに『ごめん』と呟きながら質問を忘れさせる呪いをかけました」
「そしてできるだけ早く失礼のないように立ち去りました。次の日、彼の修行を見ながら、彼が少し下手になったように感じました。呪いが彼の腕を鈍らせたのだと思いました」
「その日、練習の後に話し合って、彼と結婚することを承諾しました。でも、実家に住みたくないと言いました。結婚する前に、自分の家を手に入れなければならないと思いました。『しかし、それは駄目だよ。結婚した子供が歳取った親と住んで、彼らのお世話をしてあげるのが親孝行なのだ』と彼は答えました」
「それを聞くと、心が愛でいっぱいになりました。この人と結婚しなければならない!それでも、愛より悩みが勝ったのです。ですから、やめろと言う心の囁きを無視して、また呪いをかけました。今度は私に同意させるための呪いでした」
「そうして、しばらくして彼は自分の家を手に入れて、私と結婚してくれました。嬉しかったのですが、残念ながら間もなく夫婦の間に諍いが起きるようになりました。私と一緒に出かけるかとか、綺麗な着物を買ってくれるかとかいったような些細な事でも、すぐに私の言う通りにしてくれないと、また呪いました」
「そのように呪いが呪いの上に積み重なりました。武器の腕前はだんだん落ちていきました。ようやく村人も彼の様子がおかしいと気付いて、病気にでもなったのかと尋ねました」
「突然、殿からの使者が来ました。戦だから、侍は全員城に集まれと言いました。こんな状況では、行ってはいけないと私は言いました。務めだから、行かないわけにはいかないと彼は答えました」
「私はまた彼を呪おうとしましたが、何も起りませんでした。彼の忠誠心は私の力より強いのだと思いました。彼が行かなければならないのなら、その前に、前に掛けた呪いを解くべきだと思いました。すぐに呪いを解こうと思いましたが、何一つ解くことができませんでした。どうやら私の力が封じられているようでした」
「泣きながら、彼の出陣を見送りました。彼が戦死したら、私のせいに違いありません。どうして、どうして力が封じられているのかと思いながら、その頃痛くなった胸を軽く摩りました」
「胸を摩っていると、ピンとわけに気付きました。痛くなったというのは私が身籠っているからでした。牝狐が身重になると、赤ん坊を守るために、産むまでほとんどの力が封じられるのです。そういうわけで、呪うことも呪いを解くこともできませんでした」
「彼が無事で帰ってくるように祈って、来る日も来る日も待ちました。しかし、彼が帰ってくることはありませんでした。それは私のせいに違いないと悟りました」
「その後の数週間のことはあまり覚えていません。我に返ると、彼の実家に来ていました。どうしてよいか分からないまま、そこに住み続きました」
「生きていたくありませんでした。でも、彼の子のために生き延びなくてはいけませんでした」
「そこに残りたくありませんでした。でも、彼の子のために残らなくてはいけませんでした。人間の子供を狐達と一緒に育てるわけにはいきません。私が愛している夫を何回も呪ったのですから、人間を好きではない狐達は、この子をその何倍も厳しく呪うだろうと考えずにはいられませんでした。ですから、私の実家に戻ってこの子を育てることなどできませんでした」
「しかし、人間の世界に残って呪わずに子を育てられる自信はもうありませんでした。この子の世話を彼の両親に任せる他はありませんでした」
「この子から離れたくありませんでした。でも、離れないで済む方法も思いつきませんでした」
「そんな葛藤で押しつぶされそうになりながらお腹が大きくなる日々を過ごしました。ようやく、出産の日が来ました」
「産む痛みより子から離れなければならないことは何倍も切なかったです。それでも、離れるために産まれた子を見るのも触れるのも拒みました」
「産むと、力の封印が解けました。でも、私が狐であるとばれたくありませんでした。それで、夜中まで待って、こっそりと家を出ていって、わざと川まで足跡を残しました。そして、本当の姿に戻って、こちらへ帰ってきました」
「でも、心の不安を抱えたまま実家に戻ることなどできませんでした。ですから、こちらはただ彼と一緒に住んでいた家の思い出のための再現です。本物の住処は外で掘られているのです」
「弟のおかげで、一度も会うことの叶わなかった娘と孫の生と死を知らせてもらいました。全ては私のせいに違いありません。天罰ですもの」と姫は言って、泣き出しました。
「まあまあ」と家老は声をかけました。「おばさまがご主人を傷つけなかったとは言えないが、侍の妻の悪事のせいで国が滅んで殿が二人倒されたわけではないでしょう。これほど倹しく暮らしている今のおばさまが、そんな我がままな嫁と同じ人とは思えません。いつも元気なご子孫のゆき様を訪ねた方がいいと思います。そろそろ跡継ぎがお産まれになるので、こちらに来たくとも来れませんでした」
姫は泣きながら家老を抱き締めました。「そんなことはできません。そんなわけには参りません」と何度も繰り返してしくしく泣きました。
家老は姫の背中を撫でました。「いいえ、きっとできますよ。行った方がいいですよ」と慰めました。
姫が泣き伏している間中、家老はずっと彼女の背中を撫でてやりました。姫が泣き終わってやっと、その話は終わり告げたのでした。