第九十三章
ゆきの子
庭に戻ると、若殿はまた花見を楽しもうとしましたが、気持ちが高ぶって、視線は桜よりもついついゆきの部屋の方へ向き、無意識に庭のあちこちを歩き回りました。
しばらくして狐は一人の供人と一緒に戻ってきました。供人を殿様達に紹介してから、狐達も待ち始めました。待ちながら、狐は殿様との会話を続けました。狐子のことを決定すると、二人は狐子と共に若殿の態度や活動に対して論評し始めました。
ようやく、昼過ぎ、女将が庭に出てきました。「母子共に元気でございます。殿、今はお嬢様をご覧になれます」
若殿は「女子だ!父になった!」と繰り返しながらしばらく人から人へと駆け回りました。そして、ゆきの部屋へ向かって駆け出しました。皆も少し遅れて若殿について行きました。
部屋では、柔らかい布で包まれた赤ん坊が、幸わそうな笑みを浮かべたゆきの胸に抱かれていました。その光景を壊したくないのか、襖の脇から若殿は静かに二人を見つめました。
しばらくしてゆきは若殿に目を向けました。「旦那様、娘を抱いてやってくださいませんか」と腕を伸ばしながら優しく訊きました。
若殿は少しためらってから部屋に入り、娘を抱き上げました。続いて入って来た家老が、「殿、家系図には、どういうお名前を記しますか」と訊ねました。
若殿はしばらく呆然としていましたが、ゆきはすぐに声をかけました。「桜。この子は桜です」と言うと、若殿は名前を含味するかのように「桜」を繰り返してから、「うん。桜がいい」と言いました。
殿様は「見事な名前だな。美しい孫娘に相応しいんじゃない」と、手で若殿の背中を軽く叩きました。
「可愛い!次に抱いてもいい?」と、桜を見た狐子が飛び跳ねんばかり興奮しました。
そして、狐がゆきの知らない女性を連れて枕元に来ました。古風な着物に古風な黒髪の美しい人でした。しかし、その顔には見覚えがありました。狐が「ゆき殿、こちらは…」と紹介を始めると、ゆきは口を挟みました。「まさか、もしかして…おばあさま?いや、ひおばあ様ですか?」と言いながら立ち上がりました。
女は頷き、優しく微笑みました。「初めまして、ゆきや。狐の谷の姫と申します。あまりに長く時間狐の谷に籠ったまま、我がままに自分の悩みしか考えていなかったのね。弟がお前の活躍を伝えるたびに興味が少しずつ掻き立てられたの。ついに、お前が子を産むところだと聞いて、来ざるを得なかったの」と言うと、ゆきを抱き締めました。
その抱擁が終わると、殿様は声をかけました。「ところで、狐殿が狐子ちゃんと家老殿の婚礼を許してくれた」
ゆきは、「本当?すごい!いつですか?」と言うと、顔が割れんばかりに微笑みました。
家老は狐子の顔を見つめながら、「まだ決めていません。できるだけ早くと思っています」と答えました。
狐は、「ゆき殿、ついに幸せを見つけたのですか」と訊きました。
ゆきが家族と友達の笑顔を見回し、「本当に幸せですが、まだ足りないことがあります」と言うと、皆はぽかんとゆきを見つめました。
若殿が「いったい何が足りないのだ!?」と訊ねると、ゆきは若殿の手を取り、顔をまっすぐに眺めながら、「子供です。一人子でしたので、多くの子供が欲しいのです。この城を子供でいっぱいにしたいのです」と言いました。そして、皆は笑いました。
終